執筆期間 2026/07/07~10/14  


ときめきラバーズ『わたしの沖田くん』

「青春overwrite」― 消せなかった思い ―

上書きしたはずのテープに、あの日の恋が残っていた 

 

【わたしの沖田くん】 原作 野部利雄 集英社 二次創作 J.Magpie




 

  新しい暮らしの始まり


 

週末に結婚式を控えた総一と琴は、式までの間、実家を離れ、新しいアパートで暮らすことにしていた。

 

仕事の合間を縫って駆けつけてくれた昔なじみの坂本夫妻とともに、二人は朝から大わらわで荷物を運び込んでいた。

 

「おい沖田っ! もうほかに荷物はねえのかよ!」

 

汗をぬぐいながら、悪友の坂本がトラックの荷台から叫ぶ。

 

「ああっ、これで全部ぜよ!」

 

総一は親指でグーサインを出し、満面の笑みで応えた。

 

「よっしゃ! じゃあ、ひと休みしようぜ!」

 

部屋に戻ると、坂本の妻・さっちんと琴が、すでにお茶の支度を整えていた。

 

「疲れたときは、甘いものが一番でしょ?」

 

さっちんは菓子の包みを開きながら笑う。

 

「坂本君、総一、お茶とコーヒー、どっちがいいかしら?」

 

キッチンから琴が顔をのぞかせた。

 

「おい、琴! そこらじゅうに段ボールがあるんだから、足元に気をつけろよ!」

 

総一が声をかけた、まさにその瞬間だった。

 

琴の足が段ボールの角に引っかかり、身体が大きく傾いた。

 

「キャッ!」

 

「っと、危ない!」

 

総一はとっさに駆け寄り、琴の身体を抱きとめた。

 

ほんの一瞬。

 

息がかかりそうなほど近くで、二人の視線が重なった。

 

「…………」

 

「…………」

 

「はいはい、ごちそうさま」

 

キッチンから、さっちんの呆れたような、それでいて楽しそうな声が飛んできた。

 

「も、もう! バカ! 大丈夫だから、早く放してよ!」

 

真っ赤になった琴は、総一の腕を振りほどくと、逃げるようにキッチンへ戻ってしまった。

 

「おいおい、結婚前からこれかよ」

 

坂本がニヤニヤしながら総一の肩をたたく。

 

「う、うるせいっ!」

 

総一も同じように顔を赤くした。

 

しばらくして、落ち着きを取り戻した琴が、淹れたてのコーヒーを運んでくる。

 

「はい、坂本君。今日はありがとう。コーヒーはブラックでよかったわよね?」

 

「おう、沢村。気にすんなって」

 

琴のいつもの優しい笑顔に、坂本も少し照れくさそうに笑う。

 

「総一のは、いつものミルク二つにお砂糖三つね」

 

「サンキュー、琴!」

 

「まったく、甘いもの好きは昔から変わらないんだから」

 

さっちんが笑うと、四人の間にまた笑い声が広がった。

 

段ボールをテーブル代わりにしてお茶を飲みながら、話題はいつしか中学時代の思い出へと移っていった。

 

忘れていた出来事も、当時の友人たちの顔も、話し始めれば次々によみがえってくる。

 

あのころは、まさか自分たちがこんな日を迎えるなんて、思ってもみなかった。

 

「あっ、いけねえ! もうこんな時間か!」

 

時計を見た坂本が、慌てて立ち上がった。

 

「わりぃな、沖田。続きは結婚式でゆっくり話そうぜ」

 

「じゃあ、琴、また式でね!」

 

さっちんも手を振り、二人は会社から借りてきたトラックへと急いだ。

 

「坂本君、さっちん、今日は本当にありがとう! 式の受付もよろしくね!」

 

琴が玄関先から声をかける。

 

「任せとけ!」

 

運転席に乗り込んだ坂本が、窓から拳を突き出した。

 

「……あっ、そうそう! 今日のブラックコーヒー、飛びっきり甘かったぜ!」

 

「もう、坂本君ったら!」

 

さっちんが隣でくすくす笑う。

 

トラックは威勢のいいエンジン音を残し、夕暮れの街へ走り去っていった。

 

にぎやかな友人たちが帰ると、新居は嘘のように静かになった。

 

まだ片づいていない段ボールの山。カーテンもかかっていない窓。差し込む西日が、部屋の中に漂う埃を金色に染めている。

 

これから始まる二人の暮らし。

 

その第一歩は、まだ段ボールとの格闘の真っ最中だった。

 

「さてと、もうひと頑張りするか」

 

総一が大きな段ボールを持ち上げた、そのときだった。

 

ガラガラッ、カシャッ。

 

箱を傾けた拍子に、何か硬いものが床へ転がり落ちた。

 

小さな透明のプラスチックケースだった。

 

拾い上げてみると、中には懐かしいカセットテープが収まっていた。鮮やかな黄色いラベルが目を引く、片面五分、両面合わせても十分というカラオケ用の短い録音用テープだ。

 

ケースのインデックスカードには、少し色褪せた丸文字で、たった一言。

 

『琴ちゃんへ』

 

「……これ、何のテープだっけ?」

 

総一が首をかしげると、隣で荷物を整理していた琴の手が止まった。

 

「あっ……!」

 

琴はテープをのぞき込み、懐かしそうに目を細めた。

 

「思い出したわ。私が宇都宮を離れるとき、クラスのみんながくれたメッセージテープよ」

 

新しい街へ引っ越す直前、クラスの友人たちが内緒で作ってくれたものだった。

 

けれど、当時の琴には、それを聴く勇気がなかった。

 

再生ボタンを押せば、友人たちの声と一緒に、離れ離れになる寂しさまであふれ出してしまいそうだったから。

 

いつか聴こう。

 

そう思いながら、大切にしまい込んだまま、今日まで一度も再生していなかったのだ。

 

「へえ、そんなのがあったんだ。せっかくだから、聴いてみるか?」

 

「でも、わたしカセットデッキなんて持ってきてないわよ」

 

「大丈夫ぜよ。実家に、昔使ってたアイワのラジカセが残ってるはずだ。明日、持ってくる」

 

「そうね……。じゃあ、明日、一緒に聴きましょう」

 

琴はテープを両手でそっと包み込んだ。

 

窓の外では、黄金色だった空が少しずつ茜色に染まり始めていた。

 

新しい暮らしの中で、二人は思いがけず、過去から届いた小さな贈り物を見つけたのだった。

 



 

  十分間のタイムカプセル


 

翌日の午後。

 

大方の荷ほどきを終えた部屋に、総一が実家から運んできた古いアイワのモノラルラジカセが置かれていた。

 

「よし、これで聴けるぜよ!」

 

意気揚々とコンセントに電源コードを刺そうとしたがコードが見当たらない。

 

「……あれ? コードがねえぞ、忘れちまった」

 

「もう、総一ったら。ちゃんと確かめてから持ってくればよかったのに」

 

「仕方ない、電池でいくぜよ!」

 

総一はラジカセを裏返し、少々錆びついた電池蓋を開けた。

 

その途端。

 

ビョーン!

 

「うわっ!」

 

中に入れっぱなしだった古い単一乾電池が、バネの勢いで飛び出し、畳の上をゴロゴロと転がっていった。

 

「もう、びっくりした! 総一ったら、何やってるのよ!」

 

「いや、こいつが勝手に飛んだんぜよ!」

 

二人は顔を見合わせ、とうとう吹き出した。

 

「しかし、何でこのラジカセ、電池を六個も使うんだよ……」

 

「総一、単一電池の買い置きはあるの?」

 

「大丈夫! 近くに電気屋があったはずだ!」

 

総一は財布をつかむと、慌ただしく部屋を飛び出していった。

 

しばらくして、息を切らしながら戻ってきた。

 

「ふぅーっ! 電気屋は閉まってたけど、乾電池の自販機があって助かったぜよ!」

 

「よかったわね。でも、今度こそ大丈夫?」

 

「もちろん!」

 

新しい単一乾電池を六本詰め込み、裏蓋を閉じる。

 

これで準備は万端だった。

 

総一はカセットケースからテープを取り出した。

 

ふと見ると、上書き防止用の爪が折られた部分に、小さく切った透明なセロハンテープが貼られている。

 

「あいつら、何度も録り直したんだな。わざわざセロテープまで貼って、穴にティッシュも詰めてある」

 

総一が懐かしそうに笑った。

 

「でも、間違って消しちゃったら大変だ。これは剥がしとくぜよ」

 

「そうね。大切なテープだもの」


(でも何かこのセロハンテープ見たことあるような気がするな)


 そう思いながら総一は、慎重にセロハンテープや詰め物を剥がし、カセットをセットした。

 

そして、重たい再生ボタンを押し込む。

 

カチャッ。

 

ラジカセは低く唸りながら、ゆっくりと回り始めた。

 

「ウー……ウー……」

 

「……大丈夫かしら?」

 

琴が心配そうに身を乗り出した。

 

その瞬間だった。

 

『ウニュ……プツッ!』

 

テープの回転が止まった。

 

「あれっ?」

 

総一が取り出しボタンを押す。

 

しかし、蓋は開かない。

 

ガチャガチャと操作しても、虚しい音が響くだけだった。

 

「ちょっと、どうなってるの?」

 

「待て、待て! 無理に引っ張るなよ!」

 

小窓からのぞき込むと、薄い磁気テープが内部でぐしゃぐしゃに絡まり、無残な姿になっている。

 

「大変! テープがワカメになっちゃった!」

 

「だから、引っ張るなって! 切れたらどうするぜよ!」

 

二人は大騒ぎになった。

 

総一は工具を探し、ドライバーを手に取ると、ラジカセの蓋を慎重に開け始めた。

 

「いいか、琴。そーっとだぞ。そーっと……」

 

「分かってるわよ。総一こそ、気をつけて!」

 

まるで精密手術のように息を詰め、二人がかりでテープを救出していく。

 

ようやく引き出したテープには、何重もの細かい皺が寄っていた。

 

「うわあ……こりゃ、ひでぇ」

 

総一はしばらくテープを眺めていたが、何かを思いついたように顔を上げた。

 

「待ってろよ。まだ何とかなるかもしれん」

 

筆箱から一本のボールペンを取り出し、カセットのリールの穴に差し込む。

 

そして、弛んだテープを少しずつ巻き取っていく。

 

くるくる、くるくる。

 

皺の寄ったテープが、少しずつリールに収まっていく。

 

「……すごいわね、総一」

 

「へへっ。こういうのは、昔から得意なんぜよ」

 

得意げな総一の横顔を見て、琴は小さく笑った。

 

やがて、修復作業が終わった。

 

「よし。今度こそ、いけるはずぜよ!」

 

二人は顔を見合わせ、祈るような気持ちでゆっくりと再生ボタンを押し込んだ。

 

カタカタ……。

 

微かな回転音に続いて、スピーカーから聞こえてきたのは――。

 

『……♪』

 

「……あれ?」

 

流れてきたのは、懐かしい中学校の校歌だった。

 

「何だよ、これ。せっかく直したのに、校歌じゃないか」

 

「ちょっと! 何言ってるのみんなが一生懸命歌ってくれてるのよ!」

 

琴が頬を膨らませる。

 

「いや、わりぃ、でも懐かしいけどよ……」

 

「もう!」

 

総一は苦笑いしながら、テープを止めた。

 

「分かった分かった。じゃあ、B面を聴いてみるぜよ」

 

カセットを取り出して裏返し、再びセットする。

 

カチャッ。

 

シュー……パチパチ……。

 

少しのノイズのあと、今度は懐かしい声が部屋いっぱいに広がった。

 

『琴、元気でね!』

 

『向こうに行っても、私たちのこと忘れないでよ!』

 

その瞬間、琴の胸に、遠い過去の宇都宮の空気が漂ってきた。

 

あのころの教室。放課後の廊下。友人たちの笑顔。

 

忘れたことなど、一度もなかった。

 

ただ、もう二度と戻れないと思っていた時間が、今、確かにここにあった。

 

「……みんな、変わってないわね」

 

琴の声が、ほんの少し震えた。

 

総一も、いつになく静かに耳を傾けていた。

 

やがて、琴は何かを思いついたように顔を輝かせた。

 

「そうだわ、総一!」

 

「ん?」

 

「このテープ、私たちの結婚式で流しましょうよ!」

 

「結婚式で?」

 

「ええ。坂本君や、当時のクラスメイトも来てくれるでしょう? きっと、みんな喜ぶわ!」

 

総一は少し考えたあと、優しく微笑んだ。

 

「……面白そうぜよ」

 

琴は嬉しそうにうなずいた。

 

総一はテープを止めると、先頭に巻き戻す。

 

ウィーン……。

 

小さなリールが回り始める。

 

二人は、まだ知らなかった。

 

その短いテープの中に、誰も覚えていない、もう一つの声が残っていることを。

 

そして、それが二人の人生を、もう一度巻き戻すことになるのを。

 


 


  上書きされなかった告白


 

桜の花びらが舞う、U市の小さな結婚式場。

 

二人の披露宴は、和やかな雰囲気のうちに進んでいた。

 

友人たちの祝辞に、懐かしい顔ぶれとの再会。会場は笑い声と拍手に包まれ、幸せな空気が満ちていた。

 

高砂の席に並ぶ総一と琴。

 

その新郎は、幸せいっぱい……と言いたいところだったが、実のところ、前夜の前祝いで羽目を外し、ひどい二日酔いを引きずったまま式に臨んでいた。

 

しかも、会場に入ってからも祝い酒を勧められるたびに盃を重ね、すっかり出来上がっている。

 

近くに座る坂本も、似たような有様だった。

 

「もうっ、総一! しっかりしてよ!」

 

琴が小声でたしなめる。

 

「わ、分かってるぜよ……」

 

「これからメッセージテープを流すのよ? あなたが説明するんでしょう!」

 

「お、おう……」

 

総一は真っ赤な顔で、何とかうなずいた。

 

その状況を見て、さっちんが坂本に呆れ顔を向けながら、琴に申し訳なさそうな視線を送っている。

 

やがて友人代表の挨拶が終わり、司会者がマイクを手に取った。

 

「ここで、新郎新婦から皆様へ、ささやかなサプライズがございます」

 

会場がざわめく。

 

「よっしゃ……!」

 

総一は勢いよく立ち上がった。

 

ところが。

 

ガタンッ!

 

次の瞬間、膝から崩れ落ち、そのまま高砂のテーブルに突っ伏してしまった。

 

「おおい! 新郎、大丈夫か!」

 

「沖田、何やってんだよ!」

 

会場にどよめきと笑い声が広がる。

 

琴は一瞬、額に手を当て上を向いたが、すぐに凛とした姿勢で立ち上がった。

 

「皆様、主人が大変失礼いたしました。代わりまして、私からご説明させていただきます」

 

その見事な切り替えに、会場から温かな拍手が起こった。

 

「実は今日、皆様に聴いていただきたいものがあるんです」

 

琴は、そっとテープケースに手を添えた。

 

「これは、私が宇都宮を離れるとき、中学校のクラスメイトのみんなが贈ってくれたメッセージテープです。ずっと大切にしまっていたのですが、先日、新居の荷物の中から見つかりまして……。せっかくですから、皆様と一緒に聴きたいと思いました」

 

会場の一角から、懐かしそうな声が上がった。

 

「おおっ、あれか!」

 

「そんなの、まだ持ってたのか!」

 

当時のクラスメイトたちが、身を乗り出す。

 

やがて照明が少し落とされ、ラジカセの再生ボタンが押された。

 

カチャッ。

 

A面の校歌が流れた時に、知らず知らずのうちに合唱が始まった。

 

そしてB面のメッセージが流れていく。

 

『琴、元気でね!』

 

『向こうに行っても、私たちのこと忘れないでよ!』

 

スピーカーから流れ始めた、若い日の友人たちの声。

 

会場のあちこちで笑顔がこぼれた。

 

「うわっ、今の声、絶対あいつだろ!」

 

「お前、昔から声でけぇなあ!」

 

笑い声が起こる。

 

五分という短い時間に詰め込まれた、懐かしい思い出。

 

最後のメッセージが終わると、スピーカーからは、かすかな『シャー……』というテープノイズだけが流れ続けた。

 

「……終わったみたいね」

 

琴が停止ボタンに手を伸ばしかけた、そのときだった。

 

『ザザッ……ウネウネッ……』

 

突然、スピーカーから激しいノイズが響いた。

 

テープの皺が、再び音を歪ませているらしい。

 

そして、そのノイズの向こうから――。

 

『坂本っ、俺も言うのかよ!』

 

会場の空気が、一瞬にして止まった。

 

それは、紛れもなく、少年時代の総一の声だった。

 

『何言ってんだ! お前、小学校からずっと沢村と一緒だったじゃねえか!』

 

『分かった……分かったぜよ』

 

ノイズの向こうで、何人もの少年たちが騒いでいる。

 

『ほら、早く言えって!』

 

『……なあ、琴』

 

そこで、声が止まった。

 

わずかな沈黙。

 

そして、照れ隠しをするような、ぶっきらぼうな声が続いた。

 

『……別に、何でもねえぜよ』

 

『何だよ、それだけかよ!』

 

『お前ら、いつも一緒だったじゃねえか!』

 

周囲の少年たちが、いっせいにはやし立てる。

 

『違わい! 何であんなオカチめんこ……っ』

 

言葉が途切れた。

 

『何だよ? 最後まで言えよ!』

 

『うるさいぜよ!』

 

ガサガサッ。

 

マイクが擦れる音が響く。

 

そのあとに聞こえてきたのは、少し鼻にかかった、不機嫌そうな声だった。

 

『……なんだよ、沖田泣いてんのか?』

 

『泣いてねえよ! 埃が目に入っただけだい!』

 

一瞬、会場のあちこちから、こらえきれない笑いが漏れた。

 

しかし、次の瞬間には、誰もがスピーカーに耳を傾けていた。

 

『ガタガタッ……』

 

雑音が響き、声が遠ざかっていく。

 

そして――。

 

『ガチャン!』

 

プラスチックの乾いた音とともに、再生ボタンが跳ね上がった。

 

会場は静寂につつまれた。

 

誰もが、目の前で起こったことを理解するのに、少し時間が必要だった。

 

何度も録音をやり直した友人たちのメッセージ。

 

その合間に、偶然残された、少年時代の総一の声。

 

上書きされずに残っていたのは、誰にも聞かせるつもりのなかった、不器用な本音だった。

 

「…………」

 

琴は、そっと総一のほうを振り向いた。

 

さっきまでテーブルに突っ伏していた総一が、いつの間にか顔を上げている。


総一は自分のメッセージを上書きするために、セロハンテープを貼って録り直したのを思い出していた。

 

その顔は、二日酔いの赤さとは明らかに違っていた。

 

耳まで真っ赤に染め、総一は慌てて顔を背けた。

 

「な、何だよ、あいつら……。余計なもん、残しやがって……」

 

会場から、どっと笑い声が上がった。

 

「沖田! お前、昔から変わってねえな!」

 

「そういうことだったのかよ!」

 

坂本をはじめ、当時の友人たちが目頭を押さえながら笑っている。

 

やがて、誰からともなく拍手が始まった。

 

大きな拍手が会場いっぱいに広がっていく。

 

琴は小さく肩を震わせ、うつむいたまま笑っていた。

 

けれど、その瞳には、いつしか涙がにじんでいた。

 

あのころの総一。

 

強がりで、意地っ張りで、肝心なことほど口にできなかった少年。

 

その声が、何十年という時間を越え、今、夫となった彼の隣でよみがえったのだ。

 

琴は左手の薬指に光る指輪を見つめた。

 

「……ふふっ」

 

小さな笑みがこぼれる。

 

「私たち、本当に夫婦になったのね」

 

テープは、もう一度、二人をあのころへ連れ戻してくれた。

 

たった十分の録音。

 

その中に、誰も知らなかった三十秒が残されていた。

 

上書きされることなく、ずっと。




 

  青春は、もう一度始まる


 

会場を包んでいた笑い声は、いつしか温かな拍手へと変わっていた。

 

涙をにじませた琴と、照れくささに耐えきれない総一。

 

二人の視線が、そっと重なった。


 

「……また、埃が目に入ったのね」

 

琴がいたずらっぽく囁く。

 

総一は一瞬、何か言い返そうとした。

 

けれど、結局、言葉は出てこなかった。

 

その代わり、唇だけが、かすかに動いた。

 

――琴。

 

声にはならなかった、その一言。

 

けれど琴には、はっきりと伝わった。

 

胸の奥で、何かがほどけていく。

 

少年時代からずっと、そばにあった想い。

 

何度も言いかけては飲み込み、照れ隠しの言葉で覆い隠してきた気持ち。

 

それは、あの日のテープの中にさえ、完全には消し去ることのできない形で残っていた。

 

琴は、もうためらわなかった。

 

総一のそばへ歩み寄り、その首に両腕を回す。

 

「琴……?」

 

驚く総一の声が、ほんの少し震えた。

 

琴は答える代わりに、そっと顔を上げた。

 

そして、二人は静かに口づけを交わした。

 

一瞬の沈黙のあと、会場いっぱいに歓声と拍手が弾けた。

 

「おいおい、披露宴で見せつけてくれるじゃねえか!」

 

坂本の野次に、さっちんの笑い声が重なる。

 

けれど、二人はすぐには離れなかった。

 

窓の外では、桜の花びらが春風に舞っていた。

 

あの日、宇都宮を離れる琴に贈られた、短いメッセージテープ。

 

そこに残っていたのは、懐かしい友人たちの声だけではなかった。

 

言えなかった言葉。

 

伝えられなかった想い。

 

そして、時が流れても変わらなかった、二人の青春そのものだった。

 

人は、過去を上書きしながら生きていく。

 

思い出は少しずつ色褪せ、声も、表情も、いつしか記憶の彼方へ遠ざかっていく。

 

それでも、消せないものがある。

 

何度録り直しても、何度上書きしても、消えずに残ってしまうものがある。

 

それは、きっと――。

 

本当に大切な想いなのだろう。

 

カセットテープは、静かに役目を終えた。

 

けれど、二人の物語は、ここから始まる。

 

青春は、上書きできない。

 

そして、二人の青春は、これからも続いていく。