執筆期間 2026/3/222026/05/10 



ときめきラバーズ『わたしの沖田くん』

星降る夜の迷い子 

 

【わたしの沖田くん】  作者 野部利雄 集英社 二次創作 J.Magpie




恋というには、あまりに近く。

幼馴染というには、あまりに熱いひと夜の物語  




 

蒸し暑い初夏の夜、和光荘の年季が入った廊下は、いつになく静まり返っていた。

 

壁の薄い隣の琴の部屋からも物音一つ聞こえてこない。

 

(そういえば琴のやつ、高校時代の同窓会に行ってたな)

 

昼間、琴がそう話していたのを思い出した。

 

総一は下着姿で布団に転がり、お気に入りのカセットテープを聴いていた。

 

すると外から、キィーッという車のブレーキの軋む音が響いた。

 

『じゃあ琴、おやすみ』

知らない女性の声だった。

 

(タクシーに相乗りで帰ってきたのか。……女友達なら紹介してくれてもいいのに、幼馴染だけど高校は違ったからな。……まあ、男じゃなくてよかったけど)

 

総一は、カセットの停止ボタンを押した。


辺りはまた静寂に戻ったが、突然ガチャガチャとノブを激しく回す音が聞こえてきた。

板張りの廊下を「タッタッタッ」と駆けてくる足音が響いたかと思うと、間髪入れず、ドアから泥酔した琴がなだれ込んできた。

 

「総一、あたひの部屋が開かないの」

 

そう叫びながら靴を脱ぎ捨て、総一が寝ていた隣に倒れ込んだ。

 

「なっ……琴? おい、琴! しっかりしろ!」

 

琴は総一の枕を抱きしめ、幸せそうに頬を寄せ、とろんとした吐息を漏らしていた。

 

「……ん……総一……もう、朝?」

 

「んなわけあるか! いまは夜の十時だぜよ!」

 

総一は、琴の隣から慌てて跳ね起き、丸まっていたジャージを力任せに履き直した。

扇風機のコードに足を取られながら、裸足のまま熱気のこもる薄暗い廊下へ飛び出した。

 

「あーっ、開かないや」

 

ドアはびくともしなかった。

 

(……鍵は鞄の中か? いや、勝手に触ることはできないしな)

 

総一は、ノブを何度回しても、ガチャガチャと無情な音が響くだけだった。

 

(……くそっ、鍵はどこにあるんだよ)

 

総一は渋々、開け放したままの自分の部屋へと引き返した。

枕を抱えて眠る琴に一瞬だけ視線を向け、すぐに顔を背けると、起こさないようにそっと受話器を握りしめた。

 

「ジー……ッ、ガチャン。ジー……ッ、ガチャン」

総一にはダイヤルの戻る時間がやけに長く感じられた。

 

「プルルルッ、プルルルッ」

ただ呼び出し音だけが虚しく響く。

 

(おーい、さとみちゃん、出てくれよ)

 

大学同期の佐野の恋人……さとみちゃんに助けを求めるのは最後の手段だ。

しかし彼女は留守のようだ。

 

「土曜日の夜だもんな、佐野と一緒かな?でも佐野のやつ、部屋に電話持ってないしな」

 

(弱ったな、琴を置いて外に行くわけにもいかないし)

 

その時、後ろから「バサッ」という音が聞こえた。

音に振り返ると、暑さに耐えかねたのか琴はシーツを大きく蹴り飛ばし、無防備な姿をさらしていた。

 

(あちゃー……たのむよ琴) 総一はもう一度シーツをかけ直す。

 

「……全く。どうしてこんなに、酔ったんだ?」

 

ため息をつきながら、総一は琴の横にそっと腰を下ろした。

古い扇風機が首を振り、ガタガタと回るたびに安っぽい金属音を立てる。

 

「琴、少し頭を上げるぜよ」

総一は枕から落ちた琴の頭を指先でそっと持ち上げた。

 

その時、酒の匂いと少しだけ触れた肌の感触に、妙に胸がざわついた。

しっかり者の琴が初めて見せる素のままの姿だった。

 

「あーもう今晩は寝られそうにないな」

 

総一が小さくつぶやいたその時――。

 

「……うっ」

琴が小さく身を震わせた。

 

とっさに、総一は飛び起きて台所へ走った。

手際よく洗面器を差し出し、彼女の背中を懸命にさする。

 

しばらくして、彼女の呼吸が落ち着いてきた。

乱れた髪の間からは無警戒なうなじが覗く。

指先が、かすかに触れた。

総一の手は一瞬止まった。

 

今まで何度も見てきたはずの、見慣れた琴の背中。

 

触れた感触を追い掛けようとする右手を、反対の手で強く押さえ付ける。

 

(……あかん)

総一は逃げるように台所へ向かい、冷たい水で顔をジャブジャブ洗った。

 

そして向き直り、柔らかいタオルで彼女の顔や首筋を優しく拭いた。

琴はまだ、意識がはっきりとしないのか、ふらりと総一の肩に寄りかかってきた。

 

「……総一」

 

声は消え入りそうだった。と同時に彼女は力なく総一に体重を預け、そのまま布団に倒れ込んだ。今度こそ、本当の深い眠りに落ち、スースーと寝息をたて始めた。

 

「もうここで寝かせるしかないな」

 

(はーっ、俺はどこで寝ればいいんだ?)

 

総一は、静かに琴の横を通り過ぎ、部屋の奥にある台所へ向かった。

 

(あー、明日は筋肉痛だな)

壁に寄りかかり、「フーッ」と深いため息をつき腰を下ろした。

板間の硬さが疲れた体にじわじわと伝わってくる。

遠くで鳴るガタガタという扇風機の音を聞きながら、総一は静かに目を閉じた。

 

そして彼もまた、いつしか深い眠りに落ちていた。

 



 

――窓の外が白み始めた頃、琴は微かな物音で目が覚めた。

 

見慣れない天井に、一瞬、思考が止まった。

(自分の部屋じゃないわ)

 

恐る恐る辺りを見渡したとき、遠くで板間に崩れるように寝ている総一が目に入った。琴の顔がみるみるうちに赤くなっていく。

 

琴は胸元を両手で押さえ、総一に気づかれないよう、静かに部屋を抜け出した。

 

朝の涼しくなった廊下を通り、琴はドアに手を伸ばした。

(あれっ、閉まってる)

 

施錠されたままのドアに少し安心し、急いで鞄の中を探った。

 

(あれ……おかしいわね。どこにもない……)

 

その時、床がきらりと光ったような気がした。

 

その先に、おひつじ座のキーホルダーが付いた自分の鍵が落ちていた。

(いやだ、出すとき床に落としたんだわ)

 

部屋に入り、「カチャッ」と勢いよくドアの鍵をかけた。

彼女は深呼吸をするように、何度も呼吸を繰り返す。

 

震える足取りで、部屋の隅にあるいつもの鏡台の前に力なく座り込んだ。

 

「……何やってんのよ、私……」

(昨日、総一の顔を見た時、すごくホッとした……。それに、あんなに一生懸命介抱してくれて……)

 

鏡の中の自分は、髪が少し乱れ、顔が異様に火照っている。

琴はためらいながら、シャツの襟元を少し下げ、鏡に首筋を映した。そして、そっと赤くなっていないか指先で触れてみる。

 

幸い、首筋には何一つ残っていなかった。鏡の中の自分と目を合わせ、「ふぅっ……」と深い安堵のため息を漏らす。

同時に、総一が懸命に背中をさすってくれた手のひらの優しさが、胸の奥に広がった。

 

彼女の指先が、何気なく鏡台の角へと伸びる。

そこには、まだ二人が再会して間もない頃、総一がふざけてつけてしまった小さな傷がある。優しく朝日が照らしているその傷を、そっと指先でなぞった。

 

あの不器用な優しさは、昔も今も少しも変わっていない。

 

(……昔から、総一はちっとも変わんないのね。フフッ。……昨日の同窓会、みんな彼氏や結婚の話ばかりで。なんだか急にやけになっちゃって、つい飲みすぎちゃったのかな)

 

少しだけ照れくさそうな、でも誇らしげな微笑みを向け、彼女は着替えを手に取った。

 

外では窓を開ける音や庭を掃く音が聞こえ始めていた。

 

ほどなくして、彼女は身なりを整え総一の部屋に入ってきた。

 

「総一……おはよう」

 

まだ眠っていた総一が、慌てて起き上がる。

琴は少しだけ照れたように、でも真っ直ぐに総一の目を見つめた。

 

「こ、琴! お前、大丈夫か? ……あの、俺、昨夜は何も、本当に何もしてないぜよ! 本当ぜよ!」


必死で言い訳をまくしたてる総一を見て、琴は少しだけ足を止め、それからくすりと笑った。

 

その笑顔は、昨夜の酔った顔よりもずっと大人びていて、それでいて瞳の奥にいつもと違う輝きがあった。

 

「……ありがとう、総一」

 

彼女は真っ直ぐに総一の目を見て、そう言った。

いつもとは違うまなざしに、総一は目を逸らすことを忘れ、ただ立ち尽くしていた。

 

琴はからかうように笑顔を見せ、何事もなかったかのように台所へと足を向けた。

 

「さあ、お茶にしましょう。……総一は、ミルク二つにお砂糖三つね」

 

「あ、ああ……」

 

カチャカチャとスプーンがカップに当たる、聞き慣れた音。

朝の少し冷えた空気に漂ってくる、淹れたてのコーヒーの香りと、ふわりと髪が揺れる後ろ姿をただ見つめていた。

 

二人はいつもと変わらぬふりをして、テーブルで向かい合った。

 

けれど、差し出す琴の指先は、少しだけ震えていた。

その指先がほんの少しだけ触れ合った瞬間、いつもと違う肌の温もりが伝わる。

 

二人は、どちらからともなく、示し合わせたようにカップを傾けた。


ただ、いつものコーヒーのはずなのに、喉を通る熱さは、今までと少し違っていた。その熱に戸惑うように、二人は最後まで、互いに言葉を交わすことがなかった。

 





 【あとがき】

 もし、あの夜、琴さんが鍵を落としていなかったら。 もし、総一がもう少しだけ器用な男だったら。

そんな「もしも」の積み重ねで、二人の物語は続いていきます。 夜の熱が引き、窓の外から朝の生活音が聞こえ始める頃、二人の心に灯った小さな熱量を感じていただけたでしょうか。

原作の空気感を大切にしながら、私なりの「二人」を紡いでみました。 

「ミルク二つに、お砂糖三つ」 そんな甘いコーヒーが似合う二人を、これからも静かに見守っていきたいと思います。 お付き合いいただき、ありがとうございました。

2026年5月10日 J.Magpie