執筆期間 2025/11/2011/29 2026/2/4加筆・修正 


ときめきラバーズ『わたしの沖田くん』

穏やかな寝息 (和光荘にて) 

 

【わたしの沖田くん】  作者 野部利雄 集英社 二次創作 J.Magpie


〇今回は完全オリジナルの二次創作になります

幼馴染みの感情が、日常生活を通して変化して行く様子を書いてみました。



深夜の和光荘は、古びた木造アパート特有の軋みと、遠くを走る電車の微かな振動だけが響く。琴はレポート用紙を睨んでいたが、隣部屋から聞こえてくる総一の乱れた寝息に集中力は完全に奪われていた。

 

総一は大学の友人達と飲みに出掛け、いつもの様に泥酔して帰ってきた。先ほどまで響いていた騒音は収まったが、たぶん布団もろくに被らず靴下も脱ぎっぱなしで寝ているに違いない。

 

外の冷たい空気が窓枠の隙間から細く忍び込み、部屋の隅々を凍てつかせていた。琴は、机の上に広げたレポート用紙の文字を読み返していた。しかし、薄い壁を通して伝わる総一の重い寝息が琴の考えを支配していた。

 

また今夜も完全に酔いつぶれている。最後の物音から時間が経ち、今は規則的な重い寝息が聞こえるだけだった。琴はゆっくりとペンを置き、冷えた湯呑みを握りしめた。

 

「もう……ほんとうに、世話が焼けるんだから」

 

琴は吐息とともにそう呟き、大学のレポートに向き直ろうとしたが一向に考えがまとまらない。

 

「総一っ、風邪でも引いたらどうするのよ、どうせ布団なんか蹴っ飛ばしてるに違いないわ」

 

琴はソッと立ち上がり、ふる里から持ってきた小さな鏡台の前を通り過ぎる。そこに映る自分の顔は、いつもと同じだが何故か少し寂しげに見えた。

 

自室のドアをゆっくりと開け、冷え切った廊下に足を踏み出す。数歩先の総一の部屋のドアの前で立ち止まる。

 

琴は静かに手でノブを回した。古いアパートのドアは、「キィ……」と、かすかな音を立てたが、幸い総一は泥酔していて気づかないようだった。

 

部屋の中は案の定、総一らしく雑然としていた。脱ぎ捨てられた上着、床に積み上がった漫画雑誌。そして布団の隅から、彼の足がむき出しになっているのが見える。

 

琴は音を立てないように、畳の上を一歩一歩進んだ。酔いが回り、穏やかに眠る総一の顔は、大学の彼ではなく昔一緒に遊んでいた頃の面影を残している。

 

琴はまず、床に丸まって落ちていた靴下を拾い上げ、散らかった机の隅にそっと置いた。そして冷たくなった彼の上半身に、優しく布団をかけ直した。首元まできちんと覆い、その拍子に総一の額に一瞬だけ手の甲を当てた。

 

「熱はないわね」

 

安堵が胸に広がる。

 

総一は一瞬、寝返りを打ったが、すぐにまた静かな寝息を立て始めた。

 

琴はホッとして、もう一度、総一の寝顔を見つめた。そして誰にも聞こえないほど小さな声で囁いた。

 

「もうバカ……本当に、手がかかるのね」

 

その声には、怒りよりも深い愛着が滲んでいた。総一は一人家を飛び出した琴が、人生の再出発を誓ってから見つけた唯一の「心の居場所」だ。時には腹立たしく、でも放っておけず、そして……どうしようもなく愛おしい。

 

(総一は昔からいつも私に心配ばかり掛けるんだから)

 

そう心の中で呟き、琴は、総一を起こさないようソッと部屋を出て静かにドアを閉めた。

 

壁一枚隔てた自分の部屋に戻ると、なぜか心臓が少し速いリズムで鼓動を続けている。鏡台に映る自分の顔は、先ほどまでの少し寂しげな影を失い、どこか安堵した、微かな笑みを浮かべているように見えた。


手には、まだ総一の布団の温かさと、彼の部屋の匂いがわずかに残っていた。先ほどまで琴の頭の中を支配していた総一への思いは消え去り、彼女は静かにレポートに向き直る。

 

壁の向こうから伝わる穏やかな寝息は、琴に確かな安らぎを与えた。

それは、壁一枚隔てた二人の幼馴染という関係が、いつの間にか愛情と言う、すでに逃れられない定めと変わっていたことに、彼女はまだ気づいていなかった。