執筆期間 2025/11/20~11/29 2026/9/8加筆・修正
ときめきラバーズ『わたしの沖田くん』
「穏やかな寝息 」 (和光荘にて)
【わたしの沖田くん】 作者 野部利雄 集英社 二次創作 J.Magpie
〇今回は完全オリジナルの二次創作になります。
幼馴染みの感情が、日常生活を通して変化して行く様子を書いてみました。
深夜の和光荘には、古びた木造アパート特有の軋みと、遠くを走る電車のかすかな振動だけが響いていた。
琴はこたつの上に広げたレポート用紙を睨んでいた。
けれど、どうしても集中できない。
薄い壁の向こうから聞こえてくる、総一の乱れた寝息。
大学の友人たちと飲みに出掛け、いつものように泥酔して帰ってきたのだ。先ほどまで聞こえていた物音も、今はすっかり途絶えている。
どうせ布団もろくに掛けず、靴下も脱ぎっぱなしで寝ているに違いない。
窓枠の隙間から忍び込んだ冷たい風が、部屋の隅をそっと撫でていく。
琴はもう一度レポートに目を落とした。
一行読んでは、また同じところを読み返す。
「もう……ほんとうに、世話が焼けるんだから」
小さく呟いて、ペンを置いた。
冷めかけた湯呑みに両手を添える。
「総一っ。風邪でも引いたらどうするのよ……」
返事などあるはずもない。
壁の向こうから、
「……ぐぅ……」
と、間の抜けた寝息が聞こえてきた。
琴は思わずため息をついた。
「どうせ布団なんか、蹴っ飛ばしてるに決まってるわ」
琴はゆっくりと立ち上がった。
ふる里から持ってきた小さな鏡台の前を通り過ぎる。
ふと鏡を見ると、そこに映った自分の顔は、いつもより少し寂しげに見えた。
琴は何も言わず、総一の部屋へ向かった。
自室のドアを開ける。
冷え切った廊下に足を踏み出すと、数歩先にある総一の部屋のドアの前で立ち止まった。
そっとノブを回す。
「キィ……」
古いドアが小さく軋んだ。
けれど総一は、泥酔しているせいか、まったく気づかない。
部屋の中は、案の定だった。
脱ぎ捨てられた上着。
床には漫画雑誌が何冊も積み上げられ、その一部は崩れている。
そして布団の隅から、裸足がひょいと飛び出していた。
「もう……」
琴は呆れたように息を吐いた。
音を立てないよう、一歩ずつ畳を進む。
眠っている総一の顔を見つめる。
昼間、大学で見せている顔とは違う。
無防備な寝顔には、昔、一緒に遊んでいた頃の面影が残っていた。
琴は床に丸まっていた靴下を拾い上げ、散らかった机の隅に置いた。
そして、布団の端をつまむ。
冷えた総一の身体に、そっと掛け直した。
肩まで覆い、首元を整える。
そのとき、琴の手の甲が総一の額に触れた。
ひやりとした肌。
「……熱は、ないわね」
琴は小さく息を吐いた。
安堵した、その瞬間。
総一が、
「……ん……」
と寝返りを打った。
琴は思わず動きを止める。
けれど総一は目を覚まさない。
しばらくすると、また穏やかな寝息が部屋に戻ってきた。
「……もう、バカ」
琴は、ほんの少しだけ笑った。
「本当に、手がかかるんだから」
誰に聞かせるでもない声だった。
そこには怒りよりも、ずっと深いものが滲んでいた。
総一。
一人、家を飛び出した自分が、新しい人生を始めようとしたその先で見つけた場所。
時には腹が立つ。
どうしようもなく呆れることもある。
それでも――。
なぜか放っておけない。
琴は眠っている総一を、もう一度だけ見つめた。
「……昔から、いつも心配ばっかり掛けるんだから」
そう呟くと、琴は静かに部屋を出た。
ドアを閉める。
「カチャ……」
小さな音がして、二人の間に再び一枚の壁が戻った。
自分の部屋に戻ると、琴は鏡台の前で足を止めた。
鏡に映った自分の顔は、さっきとは少し違っていた。
寂しげだった表情には、いつの間にか小さな笑みが浮かんでいる。
琴はその顔をしばらく見つめていた。
そして何も言わず、こたつの前に座った。
冷めかけたレポート用紙を引き寄せる。
ペンを握る。
さっきまで頭の中を占領していた総一のことが、不思議なくらい静かになっていた。
その代わりに――。
壁の向こうから、穏やかな寝息が聞こえてくる。
琴はその音に耳を澄ませた。
カリ……。
ペン先が、レポート用紙を走り始める。
遠くで、終電の電車が小さく鳴った。
和光荘の夜は、静かに更けていった。
そして壁一枚を隔てた向こうでは、総一が何も知らずに眠り続けていた。