執筆期間 2026/03/22~2026/04/05
ときめきラバーズ『わたしの沖田くん』
「ただいまっ和光荘」 ・セピア色のピースサイン
【わたしの沖田くん】 作者 野部利雄 集英社 二次創作 J.Magpie
使い捨てカメラの最後の一枚。現像されたのは、写るはずのない両親のピースサインだった。
SNSもスマホもないけれど、ここには「青春」のすべてがあった。 最強の幼なじみ、再来。 騒がしくて愛おしい、あの和光荘(にちじょう)が動き出す。
――これは、娘が受け取った、不器用な両親からの「最高のプレゼント」。
『最後の一枚、両親の記憶』
高校三年生になった敬子は、来年の入試に向け勉強漬けの毎日だった。
彼女は分厚い参考書を閉じて目をこすりながらつぶやいた。
「あー疲れた、たまにはどこかに行って気分転換でもしたいな」
壁には、家族三人で収まった写真が数枚、大切そうにピンで留められていた。
「パパとママの顔って、以前住んでた和光荘の写真が一番いい顔をしてるな」
敬子は漠然と写真を見てつぶやいていた。
そんなある日、親友から「敬子、少し息抜きにテーマパークに行かない、東京に親戚がいるから泊めてもらえるし」
「うーん、どうしようかな? うん息抜きにいいかもね、今日帰ったら両親に聞いてみる」
両親の許しをもらった敬子は、友人に誘われ宇都宮から連休の賑わいに紛れて東京を訪れていた。
初日からテーマパークに行き、翌日は横浜に行く予定だった。
朝も早かったということもあり、隣には移動とはしゃぎ疲れた様子の親友がいる。
テーマパークの喧騒の中、敬子はカメラを片手に今日だけで20枚以上の写真を撮り溜めていた。
「敬子、その使い捨てカメラ、あと何枚撮れる? 」
友人がレンズを覗き込むようにして訊ねた。
敬子はダイヤルを見ながら「24枚撮りだから、あと一枚だけ、こんなことなら36枚撮りにすればよかったな。……うーん、最後の一枚は、本当に記念に残るものだけ撮ることにする」
「じゃあ、大事にとっておかなきゃね」
二人は時間を忘れて遊び尽くし、その夜は都内にある友人の親戚宅に身を寄せた。
翌日は、横浜中華街へ向かう予定だった。
そこで二人は食べ放題を楽しみにしていたが、朝の静寂を破ったのは友人の申し訳なさそうな声だった。
「敬子、本当にごめん! 」
「さっきおじいちゃんが転んじゃって……。おばあちゃん一人だと心細いし危ないから、私も一緒に病院に付き添わなきゃいけなくなっちゃったの」
「……敬子、本当に申し訳ないんだけど、一人で横浜に向かってもらえるかな? 親からも『どうしてもお願い』って頼まれちゃって……」
「そっか、なら私も一緒に病院に行ってもいいよ」
「大丈夫、敬子は楽しんでおいでよ」
「うんわかった、でも一人で横浜に行っても少し寂しいから……予定を変えて、町田に行ってみることにする」
「えっ、町田? 」
友人が意外そうに目を丸くする。「敬子、町田に何かあったっけ? 」
「うん。パパとママが昔、一緒に暮らしていた和光荘ていうアパートがあるの」
敬子の瞳が、少しだけ遠くを見た。
「ここなら電車で30分くらいだし。高校に入る前に一度だけ、パパたちに連れてきてもらったことがあるんだ」
懐かしそうに語る敬子の横顔を見ながら親友は「そうなんだ、気を付けて行ってきてね。後でアパートのことを聞かせて、15時には家で待ってるから」
そして駅のホームで友人と別れた敬子は、迷いのない足取りで町田行きの電車に乗り込んだ。
カバンの中には、最後の一枚を残したカメラが静かに収まっている。
『時が止まった和光荘』
町田駅に降り立った敬子は、微かな記憶の断片を頼りに「和光荘」を探した。
しかし、以前来た時よりも、記憶の中の地図が塗り替えられているようで、一時間ほど歩き回っても和光荘は見つからなかった。
「おかしいなここら辺と思ったけど、そう言えばママは時折電車の音が聞こえるって言ってたな」その事を思い出し敬子は、駅の方角へ足を向けた。
その時、視界の端に、見覚えのある古びたアパートの影が飛び込んできた。
「あった……。間違いない、和光荘だ」
敬子は思わず声を上げていた。
弾む鼓動を抑えきれず駆け寄ったが、敬子の足取りは入口でぴたりと止まった。
そこには色あせた『立入禁止』の看板が虚しく掲げられていた。窓ガラスはすすけ、生活の気配は感じられない。敬子は呆然と立ち尽くし、今は静まり返った建物を見上げるだけだった。
そのとき不意に声をかけられた。
「お嬢ちゃんどうしたんだい」
その声は、建物の隅で草むしりをしている大家さんだった。
「このアパートに以前両親が住んでいて、近くまで来たので寄ってみたんです」
その話を聞いて大家さんは近くにやってきた。
「この建物もだいぶ古くなったから住む人がいなくなってね。今時共同トイレでシャワーが無いんじゃ仕方ないけどね」
「もしよければご両親のいた部屋を見てきたらいいよ。鍵はかかってないが、足元には気を付けなさい、わしは下に居るから」
そう言い残して、また草むしりに戻っていった。
敬子は和光荘に導かれるように錆びついた鉄階段に足をかけた。一段上るごとに、カン、カンと鋭い金属音が辺りにこだまし、敬子は知らず知らずのうちに駆け上がっていた。
和光荘の廊下は人の気配がなく、どこか乾いたにおいがした。
「えっと奥の突き当たり左がパパの部屋。その手前が、ママの部屋……」
記憶を確認するように呟きながら、薄暗い廊下を進む。そして父・総一の部屋の前まで来るとドアに手をかけ、そっと力を込めた。
ギィという音を立てて開いた扉の先へ、敬子は一歩足を踏み入れる。
「……ただいまっ」
無意識に出た言葉が、誰もいない室内に溶けていった。
敬子は住人が入れ替わり、時代が流れても、確かに父が過ごした時間の断片が漂っている気がした。
玄関から首を伸ばしながら部屋を見渡した。
「パパが言っていた通り……本当に、狭い部屋だ」
敬子は独り言を言いながら、埃の舞う狭い空間に、かつてここで夢を追っていた若き日の両親の姿を重ね合わせていた。
(次は、ママの部屋……)
敬子は廊下へ戻ると、隣のドアにそっと手を伸ばした。ここも施錠はされておらず、軽い抵抗のあとに扉が開く。
「ただいま、琴お母さん。敬子が来ましたよ」
今度は少しおどけた調子で、靴を脱ぎながら足を踏み入れた。
不思議なことに、多くの人が住んだであろうその部屋には、どこか凛とした清潔感が漂っていた。家具のないガランとした空間なのに、ママの慎ましくも丁寧な暮らしぶりが目に浮かぶようだ。
敬子は窓際に寄り、そっと窓枠を滑らせた。窓はガラガラという音とともに深呼吸をするかのように空気が室内を駆け抜けていった。
隣にある、先ほどまで自分がいた父総一の部屋の窓が見える。
「ママもこうして、パパと話していたんだな……」
窓越しに言葉を交わす、若き日の二人の姿。和光荘での慎ましくも輝いていた両親の記憶が、敬子の胸の中に鮮やかに浮かび上がった。
しばらくの間窓辺でたたずんでいたが、ふと時計に目をやると、約束の15時はもう目前だった。
「あっ、いけない! 戻らなきゃ」
敬子は何を思いついたのか、隣室へと続く壁を「ドンドン! 」と力強く拳で叩いた。かつて、寂しさを紛らわせるために、あるいは愛を伝えるために母が繰り返したあの合図。
不思議な胸の高鳴りを抱えたまま、敬子は弾むように部屋を飛び出した。
埃の舞う廊下でふと立ち止まり、カメラの残り枚数を確認する。
「そうだ……ここで撮って、パパたちに見せてあげよう。これが最後になるかもしれないから」
ファインダー越しに、二人の部屋が並ぶ静かな廊下を見つめる。指先に力を込めると、「カシャ」と乾いた音が響いた。最後の一枚。両親の青春を切り取った、最高に贅沢な記念写真だ。敬子は大家さんにお礼を言い急いで電車に飛び乗った。
友人の家に戻ったのは、15時を少し回った頃だった。
「敬子ごめんね、おじいちゃんも大したことなくて、たくさんお小遣いももらっちゃった。で何とかっていうアパートはどうだった? 」
心配そうに迎えてくれた友人に、敬子は少し寂しげに、でも満足そうに微笑んだ。
「それがね、立ち入り禁止で誰も住んでいなかったんだ」
「えっ、それは残念だったね……」
「うん。パパやママが聞いたら悲しむだろうな。……でもね、大家さんが中を見ていいと言ってくれたので最後の一枚を撮ってきちゃった」
「ええっ、怖くなかった? 」
「全然。大家さんも居たし、なんか温かいものに包まれているような、不思議な気持ちだったんだ」
友人は敬子の励ましと横浜へ行けなかった代わりに、もらったお小遣いで少し贅沢な食事を楽しんだ。
その夜、心地よい疲れに身を任せた敬子は、使い捨てカメラを枕元に置いたまま、いつの間にか深い眠りへと落ちていった。
『和光荘のまどろみ、春の嵐』
ふと目を覚ますと、敬子は再びあの場所――「和光荘」の前に立っていた。
先ほど見た廃屋のような姿ではない。ボロさは相変わらずだが、建物には確かな生活の匂いと、活気ある気配がした。
その時、背後から荒々しい足音が響き、不意に何者かが激しくぶつかってきた。
「うわっ! 」
地面に倒れ込んだ敬子が恐る恐る振り返ると、そこには見覚えのある、けれど信じられないほど若い「学生時代の総一」が立っていた。
徹夜麻雀の帰りなのだろう、酒の匂いをプンプンさせ、足元をふらつかせている。
「……誰ぜよ? 」
濁った声で呟いた総一だったが、女の子をなぎ倒したことに気づくと、慌てて顔を崩した。
「すまんぜよ! 怪我はないか? 」
その様子を、二階の窓から心配そうに眺めていた人影があった。いつまでも帰らない総一を待っていた琴だ。彼女は事の一部始終を見るやいなや、飛ぶような勢いで階段を駆け下りてきた。
「ちょっと総一! 女の子にぶつかって、何やってるのよ。謝りなさい! 」
(えっママ? )
琴は敬子を優しく助け起こすと、その手を引いて傷を確かめた。指先が少し切れ、赤い血が滲んでいる。
「ごめんねぇ……ヒック」
「もう、どうしようもないんだから。……ねぇ、あなた。私の部屋へ行きましょう。すぐに消毒しなきゃ」
呆然とする敬子を連れ、琴は足早に階段を上がっていく。
「あの……あの男の人は? 」
「あんなの、放っておけばいいのよ。いつだってあんな調子なんだから」
呆れ顔で笑う琴の横顔は、敬子が知る「お母さん」よりもずっと瑞々しく、勝気な輝きを放っていた。
(やっぱり昔からママは綺麗だったんだ)
敬子はそう思いながら、人の話し声や料理のにおいがする廊下を進んでいった。
琴の部屋で絆創膏を貼ってもらいながら、敬子はさりげなく隣人のことを尋ねた。
「私は沢村琴、彼はね沖田総一っていうの。隣の部屋で、小学校からの幼馴染」
最初は愚痴ばかりだった琴の言葉が、次第に熱を帯びていく。彼が本当は真面目で心優しく、どれほど自分の心の支えになったか――思い出話に花を咲かせる琴の頬は、いつの間にか上気して頬が少し赤くなっていた。
「あ、いけない。私ったら、お名前を聞いてもいいかしら? 」
「……敬子です」
「敬ちゃんね」
「あの沢村さんの話を聞いていると、隣の沖田さんを凄く気になっているみたいですね」
「えっ!? ち、違うわ、気になんてしてないわ! ただの幼馴染よ」
図星を突かれた琴は、ますます顔を赤くして立ち上がった。
「そういえば、あいつどうなったかしら。ちょっと見てくるわ!」
慌てて部屋を出る琴の後を、敬子もそっと追った。
すると階段の下で、信じられない光景が広がっていた。総一が下着姿のまま、満足げな寝顔で転がっている。自分の部屋だと勘違いして、服を脱ぎ捨てて寝入ってしまったらしい。
「あちゃー……総一、なんて格好で寝てるのよ!」
頭を抱える琴が、後ろにいる敬子に気づいて苦笑いした。
「敬ちゃん、申し訳ないんだけど……一緒にこのバカを部屋まで運んでくれる? このままだと風邪を引いちゃうかもしれないから」
二人はなるべく目を逸らして泥酔した総一を隣の部屋へと何とか運び込んだ。
そして布団に転がし、肩で息を吐きながら琴が呟いた。
「……全く、手のかかる幼馴染でしょ? 敬ちゃん」
こんな事が時々あるのよ、と笑う琴の瞳は、眠る総一を安堵の目で見つめていた。
そして敬子も酔いつぶれている総一を見ながらこう感じていた。
(嫌じゃない、どこか懐かしいパパの匂いだ)
「ふぅ……敬ちゃん、お礼に私の部屋でお茶でも飲んでいって」
「いただきます。……ママ」
「……えっ? 」
「あ……ごめんなさい! いつも、お母さんのことをそう呼んでいるから、つい間違えちゃって」
敬子は照れ隠しに笑った。
琴は不思議そうにしながらも、「そうなんだ。敬ちゃんのお母さんは、どんな人なの? 」
「ママは……すごく優しくて。パパも、見た目はちょっとだらしないけど、本当は誰よりも優しい人なんです」
「そうなのね。……きっと、いいご両親なのね」
話を聞きながら琴は温かいコーヒーをテーブルに置くと、少し首を傾げて尋ねた。。
「敬ちゃん、ミルクとお砂糖は? 」
「はい、ミルク二つにお砂糖三つでお願いします」
「えっ⁉ 」
「どうしたんですか? 」
「いえね、総一と同じこと言うからビックリしちゃった」
(えーっパパって昔は甘党だったんだ! )
コーヒーを飲みながら琴は優しく目を細めていた。
(私もそんな親になれたらいいな)
自然と視線は隣の壁を見つめていた。
『未来へ繋ぐ、最後の一枚』
しばらく琴の部屋で語り合っていると、ペタペタとサンダルで廊下を歩く音が聞こえてきた。
そして不意にドアが開き、ひょっこりと総一が顔を出した。
「コラっ総一、誰が入っていいって言ったの! ノックくらいしなさいよ」
琴の鋭い声に、ようやく酔いの冷めた総一が目を白黒させる。
「あれ……? 誰かお客さんがいたのか。すまんぜよ」
「総一、この敬ちゃんにぶつかったこと、もう忘れたの? 」
「敬ちゃん? ああ、そうだった……! 本当にゴメンよ」
「いえ、大したことありませんから。大丈夫です 」
敬子は、目の前の「若き日の父」のあまりに愚直な様子に、思わず口元をほころばせた。
「で、総一。何か用でもあるの? 」
「いや、別に……。いつものように、何してんのかなあと思って」
「だからって! 女の子の部屋に入る時ぐらいは、ノックぐらいするでしょ」
「えっ? 誰が女の子だって? 」
デリカシーのない総一の言葉が終わる前に、琴のトンカチが飛んできた。
それを避けようとした総一は鏡台に頭をぶつけてしまった。
「……痛ってぇ!! 」
「なにすんのよ!! 傷ついちゃったじゃないの」
「アッひでーな琴っ、俺より鏡台が心配なのかよ」
「当り前じゃない、私の生まれたお祝いに買って、お母さんが大事に使っていた物よ」
琴は、傷ついた鏡台を見ながら総一に文句を言っている。
想像していた通り、いや、想像以上におかしくて、もどかしくて、愛おしい二人。
「好き」という言葉さえまだ口にできない、若くてもどかしい両親の姿を、敬子は微笑ましく見守っていた。
敬子はふと、自分の手元にカメラがあることに気づいた。
カメラを手に取ると、どうしてもこの瞬間を残しておきたくなった。
「ねぇ……お二人を、撮ってもいいですか? 」
「おっ、記念写真か! なら、最高にカッコよく頼むぜよ」
総一が鼻の下をこすりながらポーズを決めれば、琴は「もう、急なんだから」と文句を言いながらも、急いで鏡台に向かって前髪を整えた。
「はい、チーズ! 」
「カシャ」
二人は息を合わせたように、完璧なタイミングでピースサインを繰り出した。
「ねぇ、敬ちゃん。……あなた、どこに住んでいるの? 」
「敬ちゃんだったっけ? ……何かどっかで見たことある顔だな」
アルバム写真の中の二人が、そのまま語りかけてくるような不思議な感覚。琴の声が遠くへ溶けていくのと同時に、敬子の意識はゆっくりと現実に戻っていった。
パチリと目を開けると、そこは友人の家の天井だった。
窓から差し込む朝の光が、枕元の使い捨てカメラを照らしている。
敬子の心は、思いがけず美しい贈り物を受け取った時のような、キラキラとした充足感で溢れていた。
昨日見た、あの寂しく朽ち果てていた「和光荘」の姿は、もうどこにもない。彼女の心の中では今も、若き日の両親があの狭い部屋でドタバタを繰り返している姿が目に浮かんでいた。
『時を越えたピースサイン』
宇都宮の自宅に戻ると、母・琴が変わらぬ笑顔で出迎えてくれた。父・総一はまだ仕事から戻っていなかった。
敬子は部屋に荷物を置き、お土産を渡そうとキッチンに行った。
そして料理を始めた母の背中に語りかけた。
「ハイお土産、それとねぇママ。今回の旅行でね、和光荘に行ってみたんだ。……でも、あそこ、立入禁止で誰も住んでいなかったよ」
琴は手を止め、振り返り少し寂しげに目を細めた。
「そうなの……あの和光荘が。でも、仕方のないことね。建物だっていつかは役目を終えるもの。あそこには、数えきれないほどの思い出があったわ」
「それでね、昔パパと再会の時のように壁をドンドン叩いてきちゃった」
「もう敬子、何やってるの恥ずかしいわね」
敬子は、夢の中で見たあの活気ある情景を思い出しながら、ふと若い両親の出来事を冗談半分に話してみた。
「ねぇママ、あそこの階段の下で、パパが下着姿で寝てたことがあったんでしょ? 」
「あら、よく知っているわね。」(パパから聞いたのかしら? )
琴は不思議そうに小首を傾げた。その時、玄関の開く音と共に総一が帰宅した。
「パパ、おかえり! 」
「おかえりなさい、ちょっとパパ敬子に変な昔話をしちゃダメじゃない」
琴の追及に、総一はきょとんとした顔で首を振る。
「変なことって何だっけ。俺、何も話してないし……そもそも、そんな失態、俺にあったかなぁ? 」
「おかしいわね。じゃあ、なんで敬子が知っているのかしら」
顔を見合わせ、首をひねる二人。敬子はそれを見て、悪戯っぽく微笑むだけで何も言わなかった。
(やっぱり……夢と同じでパパは昔から、本当にあのままだったんだ)
心の奥で、敬子は声を殺して笑っていた。
数日後。旅の記録を収めた使い捨てカメラが、現像からあがってきた。
確認のため仕上がった写真をめくっていく。
友人と笑い合うテーマパークの風景など、2003年の鮮やかな景色が続いていたが、最後の一枚だけは、何かが違っていた。
そこには、セピア色の光に包まれたピンボケの古いアパートの廊下で、若き日の総一と琴が、最高の笑顔でピースサインを繰り出している姿が写っていた。
(何これ!? )
敬子が過ごしたあの午後のひとときは、老朽化し消えゆく和光荘が、そこに愛を刻んだ新しい世代に贈った「最高のプレゼント」だったのかもしれない。
『ただいまっ和光荘』
敬子は現像から上がった写真をもって急いで家に向かった。
扉を開けリビングに行くと母は電話中だった。
「敬子、いま昔の大学の友人に聞いてみたらね、あの和光荘、リフォームのために立入禁止だったみたい。二月には完成するんですって」
その言葉に、敬子はあの日、静まり返った廊下でシャッターを切った瞬間を思い出した。
現像からあがってきた写真。カメラ屋の店先で確認した時、そこには確かにピースサインをする若き日の二人が写っていたはずだった。しかし、家に着いてもう一度見返すと、そこにはただ、主(あるじ)を失った静かな廊下だけが、セピア色の光に沈んでいた。
あの最後の一枚は、敬子の脳裏に鮮烈な印象を残し、家に着く頃には静かに思い出の中に還っていった。
(……やっぱり、あの夢の出来事は、私だけ一瞬見えた幻だったのかな)
敬子は、その不思議な思い出を心の中にしまい込んだ
二月。入試を終え、敬子は見事合格を勝ち取った。
三人は学校の下見に東京を訪れていた。
そしてもう一つの目的は生まれ変わった和光荘を見ることだった。
相変わらず方向音痴な総一は、敬子の指示で何とか和光荘についた。
「あれっなんか変な感じだな」
総一は、そう言いながらアパートに近づくと以前と同じ大家さんが草むしりをしていた。
そんな大家さんは三人を見ると話しかけてきた。
「おやこの前の嬢ちゃんじゃないか、今日はどうしたんだい」
「このアパートが新しくなったと聞いたので両親と見に来たんです」
大家さんは両親に目を向ける。しばらくの沈黙ののち「君っ沖田君じゃないか!いつも賑やかだったから覚えているよ」
そして琴も挨拶をする。
「以前私や主人が迷惑をおかけしました」
「もしかして沖田君の隣に住んでいた人かい」
「そうです沢村です」
「覚えているよ、女の子が一人で部屋を借りて本当に生活できるか心配だったよ」
そう言いながら思い出話に花が咲いていた。
「そうだ、せっかくだからリフォームの終わった部屋を見てくるといい、鍵は開いてるから。入居者募集前だから自由に見てきなさい」
「ありがとうございます、少し失礼します」と琴が答え三人は階段を上がっていった。
以前と違い滑り止めや屋根のある階段は、音もなく静かだった。
三人は迷うことなく明るく真新しい匂いのする廊下を進み、かつて二人が別々の人生を送り、そして出会った場所へと向かった。
「あれママ、俺の部屋のドアがないぞ」
「あら変ね、私の部屋のドアはあるのに」
そして琴はドアに手をかけた。ドアは音もなくスッと開いた。
「わ~凄い、総一っ見てみて!! 」
そこには、二つの部屋を仕切っていた壁が取り払われ、広々としたワンルームが広がっていた。
リフォーム後の和光荘は、かつて二部屋だった空間を一つに繋げ、清潔なトイレとシャワー室が備え付けられていた。
「わあ、綺麗! ここが私たちの住んでいた場所だなんて信じられないわ。本当にあの頃はトイレやお風呂で苦労したもの……」
琴が少し残念そうに、壁のあった場所を撫でる。「でもあの頃にこうだったら良かったのにね」
「何を言ってるんだ琴! そうなったら、俺はどこで寝ればいいんだ」
総一の抗議に、琴がクスクスと悪戯っぽく笑う。
「あなたは外の階段の下で寝ればいいじゃない。昔もそうしてたでしょ? 」
「言ったな、琴……! 」
顔を真っ赤にして声を上げる総一。そのやり取りは、まるで敬子が夢で見たあの時の二人そのものだった。
敬子は、微笑ましく二人を眺めながら、決意を口にした。
「ねぇ、パパ、ママ。私、ここで暮らしたいな。ここなら学校への通学も楽だし」
「……敬子、本気なの? 」
心配そうに顔を曇らせる琴に、総一が力強く頷いた。
「何を言っているんだママ、お前だって一人で家を飛び出して頑張ってたじゃないか。それにここは俺たちを守ってくれたように、きっと敬子のことも守ってくれるさ」
その言葉に背中を押されるように、琴が優しく微笑んだ。
「そうね、ここなら大丈夫ね。……敬子、私からもひとつ、お祝いをあげるわ。ママがずっと使っていた鏡台よ」
「鏡台? 」
「ええ。何かあると、私はいつもあの鏡を覗き込んだり、昔付いた傷跡を見たりして勇気をもらっていたの。もし敬子も、辛いことや悲しいことがあったら覗いてみて。きっと、元気をもらえるから」
「ありがとう、ママ」
その時、敬子は夢の中での出来事を思い出していた。
(この傷は、あの時パパが慌てて避けた時にできた、二人の不器用な距離の証なんだ。やっぱり昔からママはパパのことが大好きだったんだ)
敬子はいたずらっぽくママに尋ねた。
「ねぇ傷跡って何かぶつかったの? 」
「その傷はね、ママとパパの思い出の一部なのよ」
と言いながら琴はクスクスと笑っていた。
その話と琴の顔をみた総一は昔を思い出した。
あの階段での失敗のことを。
「なあママ、敬子……、皆で写真を撮ろうか、今日が敬子いや俺たち家族の新しい出発の日だ」総一が少し照れくさそうに、しかし真面目な顔で話した。
「なによ急に、ちょっと鏡台がないから待って」
「琴は昔から可愛いから大丈夫ぜよ」
「何言ってんのよ、子供の前でバカねっ」
そんな二人を見ながら敬子は部屋の奥に入っていった。
総一と琴も部屋に入り窓際の明るい場所で服や髪を整えていた。
「パパ……今窓を開けるからちょっと待ってね」
敬子はそう答えると、新しくなったサッシに手を延ばした。
以前と違いシュッという音とともに窓は軽やかに開いた。
その瞬間、一陣の風が部屋に舞い込んだ。
先ほどまでの冬の厳しさが和らぎ、二つの部屋を貫くように、春の柔らかな気配が満ちていく。
ふと、いたずらっぽくピースサインをする両親に目を向けると、逆光の中に浮かぶそのシルエットが、夢で見たあの日の二人の姿と、鮮やかに重なり合った。
写真を撮り終え琴が総一の顔を見上げた。
「あら……パパ、泣いてるの? 」
総一はとっさに答えた。
「ちがわい! 風が強くて、埃が入っただけだい! 」
敬子には、風の音が遠い日の記憶を運んでくるかのように、優しく耳元で『おかえり』と囁いているように聴こえていた。