執筆期間 2025/12/222026/03/08 


ときめきラバーズ『わたしの沖田くん』

揺れるブランコ  

 

【わたしの沖田くん】  作者 野部利雄 集英社 二次創作 J.Magpie


題名の『揺れるブランコ』ですが、ブランコはとても身近な乗り物です。勢いよく空へ向かって蹴り出せば、どこまでも遠くへ行けるような気がしますが、高く上がれば上がるほど、強い力で必ず元の場所へと引き戻されます。一度は遠く離れても必ずまた元の場所へ帰ってくる。琴と総一の関係も揺れるブランコと同じで、たとえ離ればなれになっていても、いつかは必ず再会する運命なのだと思い題名をつけました。

執筆していて思ったのは、原作で琴が再会早々総一に抱きつきながら号泣し弱音を漏らすシーンは、家を飛び出してからにも頼れず自分だけで生きてきた琴が、世界中で総一だけが琴にとって唯一の、そして最高の「安らぎ」だったからではないでしょうか。 


 

 第1章:茜空の教室、突然の別れ

 


いつもの放課後、総一と琴は放課後の教室で他愛のないおしゃべりをしていた。窓から差し込む西日が、黒板のチョークの粉を金色に照らしている。

 

「なあ、琴。お前、将来どうするつもりだよ?」

 

総一が、だらりと机に突っ伏しながら尋ねた。当時の中学生らしい、漠然とした問いかけだ。

 

総一と琴は小学四年生の九月に同時に転校してきて以来の付き合いだ。不思議と小学校や中学校でもずっと一緒のクラスだった。

 

琴は復習をしていた手を止め、少し考えるようにペン先を顎に当てた。

 

「どうするって? とりあえず高校へは行くわ。総一くんこそどうするの」

 

「俺は、地元の高校をでて東京の大学に行くんだ」

 

「ふうん。なんでまた都会なの?」

 

琴が総一に顔を向けて尋ねると、総一は笑いながら答えた。

 

「だって、可愛い子がたくさんいるって言うし、ここより断然チャンスが多いだろ!」

 

「ウシャャ」

 

少し間をおいて、琴はあきれると同時に少し寂しさを感じた。

 

「総一くん! それがあなたの考えなの!? 本当に不真面目なのね!」

 

総一は琴を茶化しながら大声で笑った。二人のドタバタは、クラスでは日常の光景だった。


しかし、本人たちは気が付いていないが、クラスメイトからは、付き合っていないのが不思議なほどお似合いのカップルに見えていたはずだ。

 

その日の夕食後。いつものように居間でテレビを見ていた琴は、突然、両親から転勤の話を聞かされた。父は書類を前に、母は心配そうに静かに告げる。

 

「琴、お父さんの転勤が決まったの、お引っ越しは来月の末なの」

 

琴の耳には、その言葉は聞こえていたが、あまりのことで直ぐには信じられなかった。

 

「いやよ、絶対いや! 転校なんてしたくない!」

 

琴はほとんど泣き叫ぶように拒否をした。慣れ親しんだ学校、先生、友達、そして何よりも、毎日顔を合わせる幼なじみの総一との当たり前の生活が突然断ち切られることに耐えられなかった。


しかし、琴がいくら駄々をこねても、大人の事情は変えられるはずがなかった。

 

翌日から、琴の学校生活は一変した。授業中も、休み時間も、笑顔が消え、ノートの隅には鉛筆で描いたカレンダーの「×」印ばかりが増えていった。


周りの友達は、琴の異変に気づきながらも、だれも理由を知らなかった。

 

少し心配に思っていた総一は、元気のない琴を元気付けようと、いつものようにちょっかいを出して笑わせようとした。

 

「おい琴! なんだよ、突然おしとやかになって。お前、熱でもあるんじゃないのか?」

 

背後から総一が大きな声でそう言いながら、琴の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。


いつもの琴なら、怒りながら文句を言っただろう。


だが、琴は何も言わず、ただ目を伏せてその手を振り払っただけだった。


 

その日の帰り道。琴は、我慢していた感情が堰を切ったように溢れ出し、校門を出たところで走り出した。口を押え泣き声が漏れるのを必死で堪えながら。

 

おい、琴!

 

それを見ていた総一は驚き、慌ててその後を追った。

 

路地を曲がった先で、総一は背中を丸めてしゃがみこむ琴に追いついた。肩が小刻みに震えている。

 

「どうしたんだよ、急に。誰かにいじめられたのか?」

 

総一が優しく声をかけても、琴は顔を上げず、ただ泣きじゃくるばかりだった。総一はただ、隣に座り琴が落ち着くのを待った。

 

しばらくして、落ち着きを知り戻した琴を支えながら、近くの公園のブランコに並んで座った。

 

ただブランコを小さく揺らす音だけが、静かな公園に響いていた。

 

どれくらいの時間が経っただろうか。琴は涙で濡れた顔を上げ、掠れた声で話し始めた。

 

「私……転校するの。来月、お父さんの仕事で」

 

総一は、息を飲んだ。頭の中に、突然大きな穴が開いたような気がした。

 

「みんなと、離れたくない。この学校が好きなのに……」

 

(……大好きなのに)

 

言葉は途切れ途切れだったが、総一には次の言葉がわかるような気がした。

 

「俺も琴と離れたくない」と総一は心で思った。

 

「そっか…」

 

総一はそれ以上何も言えなかった。ただ無言のまま二人は並んでブランコをこいでいた。空は夕暮れから闇夜に変わっていった。

 

ブランコをこぐのをやめ、二人は涙がこぼれないように空を見上げていた。そこには空に一番星をたたえたオリオン座ひときわ明るく輝いていた。

 

二人はしばらく星空を眺めていたが、総一の「琴、もう暗いから家まで送っていくよ」と、その言葉に琴は無言で立ち上がった。

 

総一は、いつもより重く感じる琴の鞄を抱え、できるだけ時間をかけるように、ゆっくりと歩き出した。


 


第2章:揺れるブランコ


 

翌日から、二人の学校生活は、これまでとはまったく違うものになった。教室には転校を控えた琴の周りに、別れを惜しむクラスメイトが常に集まっていた。

 

「琴、このノート、大事にするね」


「引っ越したら、絶対手紙書くから!」


「ありがとう サッチン

 

総一は、その輪の中に入り込むことができなかった。声をかけるタイミングを掴めず、ただ遠くから、笑顔で友達と話す琴を見つめるだけだった。


いつも近間にいた琴が、今は遠い存在のようだった。

 

そして迎えた、クラスでの送別会。

 

琴はみんなの前では、いつもの明るさを取り戻したかのように振る舞った。冗談を言い、笑顔で贈り物を受け取る。


ただ、その瞳の奥には、一瞬、深い悲しみがあるようだった。総一はそのことに気づいていたが優しい声をかけることができなかった。

 

送別会が終わり、クラスメイトに見送られて、琴は帰路についた。

 

「じゃあね、みんな、元気でね!」

 

大きな声で手を振る琴の姿が見えなくなるまで、総一は立ち尽くしていた。家の方角は同じはずなのに、総一は一人、重い足取りで寂しく家に帰った。

 

帰り道にある、二人でよく遊んでいた公園。日が沈みかけ、ブランコがきしむ音だけが響く、総一は寂しさを紛らわすようにブランコに座った。

 

総一はここで数日前に、琴から聞いた引っ越しの話を思い出し涙がこぼれそうになっていた。

 

その時にふと、自分の傍に立つ人影に気づき、顔を上げる。

 

そこにいたのは、さっき別れたばかりの琴だった。

 

琴は、総一を見つめ、少し微笑んで見せた。そして、隣のブランコに座り、揺らし始めた。

 

「ねえ、総一くん」

 

琴が静かに話し始めた。二人の間には、幼馴染というクラスメイトも、ドタバタも存在しない、静かで二人きりの時間が流れていた。

 

「私、小学生の時、本当に泣き虫で。いつもいじめられて泣いていた時、総一くんが助けてくれたこと、覚えてる?」

 

「当り前じゃないかっ」総一は照れくさそうに頭を掻いた。

 

「でも俺にとって、琴は池でおぼれていたのを助けてくれた命の恩人じゃないか」

 

「フフッ そんな事もあったかな」

 

二人の思い出話は尽きることがなかった。

 

琴はブランコを止めて、じっと総一の顔を見つめた。その真剣な眼差しに、総一はたじろいだ。

 

そして、琴の目から、堰をきったように大粒の涙が、頬を伝ってポタポタと落ち始めた。総一は何も言えなかった。ただお互いの心が、今、この瞬間しっかりとつながっているのを感じていた。

 

その夜、二人は最後まで、「好きだ」という言葉を交わすことはできなかった。互いの感情は溢れてくるのに、素直になれない思春期独特の恥ずかしさと、別れの寂しさで声に出すことができなかった。

 

公園を後にして、「これが本当に最後の二人きりの時間かもしれない、という切なさが、総一の胸を締め付けた。

 

背後で、キィ……キィ……と、小さな音が響く。


誰も座っていないブランコは、寂しさを埋めるように、いつまでも名残惜しそうに揺れていた。

 



第3章:冬空のダイヤモンド

 


そして、引っ越しの日。

 

総一は、約束していたわけではなかったが、琴の家の前に立っていた。


トラックが荷物を運び出す音と、家族の声だけが響く。二人は、最後に会った公園での出来事以来、お互いにまともに言葉を交わしていなかった。

 

出発の時が来た。総一は涙顔を琴に見られたくなかった。そしてうつむいたまま、琴の顔を見ようとしなかった。

 

総一

 

その時、いつも泣き虫だった琴が、なぜか不思議と泣いていなかった。凛とした声で、うつむいたままの総一に声をかけた。

 

男だったら、最後までカッコつけなさい

 

琴にそう言われ、総一は反射的に、涙声をごまかすように言葉を返した。

 

「さ、寂しくなんかないや! 埃が目に入っただけだい!」

 

そして涙を堪え、震える瞳で琴を見た。琴もまた、泣き顔だったが、しっかりと総一を見て微笑んでいる。

 

車が動き出した瞬間、それまで堪えていたものが弾けたように、琴は窓から顔を出して泣きながら叫んだ。

 

総一――!


その叫びに似た言葉を最後に、琴を乗せた車は総一の前から走り去っていった。


 

 

それから数年後、高校三年生になった琴は、両親と激しく口論していた。

 

「お父さん、私、短大なんか行きたくないわ! ちゃんと四年制の大学で学びたいの!」

 

「駄目だ! 短大に行きなさい。女は早く結婚して家庭に入った方がいいんだ!」

 

「そうよ、お父さんの言う通りよ。誰が進学のお金を出すと思ってるの。黙って親の言うことを聞きなさい、琴!」

 

両親の古い考えと、金銭的な理由を盾にした説得に、琴は激しく反発した。自分の人生を自分で決めたいという強い思いが、琴の中に渦巻いていた。



 

その年の大晦日の夜、小学校以来の親友坂本と総一は初もうでに来ていた。地元のお寺では除夜の鐘を突かせてもらえるので、総一は子供のように喜んでいた。

 

「沖田っやっぱり今年も彼女ができなかったな」

 

「バーローっ 俺は可愛い子がたくさんいる東京の大学に行くから、女なんて作らないんだよ」

 

と坂本に言い返し鐘つき堂に上がっていった。

 

「よ~し 一番大きな音で鐘をついてやるぞ~」と総一は力任せに鐘ついた。

 

「ゴ~ン」と鐘はひときわ大きな音をたてて鳴り響いた。

 

鐘を突き終わりお堂の上から、ふと人込みを見ると琴の後ろ姿が見えた。

 

総一は急いでお堂から降り、その女の子に駆け寄った。そして嬉しそうに肩をたたきながら「琴っ帰ってきたのか?」と思わず声をかけた。


しかし、その女の子は少し似ているが全くの別人だった。総一は照れながら謝り坂本に向き直った。

 

その行動を見ていた坂本に「やっぱりお前、沢村が忘れられないんだろ」と突っ込まれた。


総一は思わず顔を上げて坂本に言い返そうとしたその時、琴と一緒に見たオリオン座が目に入った。その瞬間総一の目に涙があふれてきた。

 

「なんだ、お前泣いているのか?」


「違わい! 埃が目に入っただけだ!」と総一は思わずいいかえした。



 

同日大晦日の晩にひょんなことから親と口論になった琴は、「短大へ入学しなさいという言葉が頭に残り一人部屋にこもっていた。

 

そして近くにある鏡台をのぞき込むと寂しげな自分の顔が写っていた。その時、除夜の鐘の音が遠くから聴こえてきた。

 

琴はそっと立ち上がり窓を開けた。スーッと冷え込んだ風が舞い込んだが妙に心地よかった。


遠くから聞こえてくる除夜の鐘の音を目で追うように、琴はそっと夜空を見上げた。そこには雲ひとつない澄み渡った冬の闇に、オリオン座がひときわ鮮やかに輝いていた。

その瞬間、琴の脳裏には、あの日の公園でブランコを揺らしながら、隣で同じ星空を見上げていた総一の横顔が鮮明に浮かび上がった。

「……総一」

無意識にこぼれたその名前は、冷たい夜気に白く溶けていく。けれど、不思議と胸の奥には、柔らかな安らぎが満ちていた。


 

短大に入学した琴は、不慣れな学園生活に戸惑いながらも、ただ毎日をやり過ごしていた。しかし一方的に教えるだけの短大生活や親が牽いた道をただ歩き結婚をするだけの人生に嫌気がさしていた。


そんな時、中学時代の大親友だったサッチンから久しぶりに電話があった。

 

「久しぶり、琴!」

 

「久しぶり、サッチン」

 

たわいもない話の中で、サッチンは言った。

 

「坂本君て覚えてる? いつも沖田君とつるんで悪さばっかりしてた男子よ。彼ね、高校も行かず大工の見習いやってるんだ。いつも私の通学路沿いで建築の手伝いをしてるの」

 

琴は突然の話に「その坂本君がどうかしたの」と聞き返した。

 

「坂本君がね、大みそかに沖田君と一緒に初もうでに行ったんだって。相変わらずあの二人には彼女がいないみたいだけどね。琴あなた沖田君と仲が良かったじゃない、その沖田君が「東京の大学は可愛い女の子がたくさんいるから俺は東京の大学に行くんだっ」て騒いでいたって坂本君が言っていたわよ」

 

琴の胸が、一瞬にして凍りついた。転校の日のこと、公園でのこと、そして車の中から叫んだ「総一」への言葉。すべてが鮮明に蘇り、気持ちを伝えられなかった後悔が、ズキリと胸を刺した。辛くなるので、琴はあえて総一のことを思い出さないように生きてきた。

 

「ああ、あの総一ね」とわざと軽く返事をした。

 

サッチンは笑いながら話したが、琴は電話が終わった後、受話器を握りしめ込み上げてくる感情を抑えられなかった。

 

「綺麗な子が多いからって、まだそんなこと言ってるんだ、あのバカ総一!」

 

忘れていた怒りや嫉妬、そして何よりも、抑えきれない総一に対する思い出が堰を切ったように溢れ出した。



 

第4章:導きのオリオン(再会への予感)

 


晩秋のある日、短大からの帰り道、きれいな夕焼けに誘われて、いつもと違う景色の良い堤防を歩いていた。

 

ススキの揺れる音や虫の音が今の琴には心地よかった。

 

ふと足を止め、夜の堤防で空を見上げた。そこには冷たく、透き通るような月が輝いていた。


「綺麗……」


琴はしばし、その光に自分を重ねるように立ち尽くしていた。しかし、流れる雲がゆっくりと月を覆い隠し、あたりは急に心細い闇に包まれてしまった。

 

「私の気持ちみたいに雲がかかっちゃったわ」

 

琴が力なく呟き、視線を地面へ落とそうとした、その時だった。月明かりが影を潜めた暗がりに、あの日公園で総一と一緒に見上げたオリオン座が、鮮やかさで浮かび上がっていた。

 

「あっ」


琴はただ一言だけ発すると、じっと何も言わずしばらく佇んでいたが、やがて何かを決心し琴は家路についた。

 

その日、琴は決断した。

 

「短大なんか行きたくない。私は四年制でしっかり勉強したい。そして・・・」

 

帰宅した琴を待っていたのは、冷え切った夕食と、父親の厳しい視線だった。

 

「短大を辞めるだと? 何を馬鹿なことを!」

 

父の怒号が居間に響く。母のすすり泣きが重なる。

 

「私は、私の人生を生きたいの。もう、お父さんの着せ替え人形じゃないわ」

 

琴は、初めて父の目を真っ直ぐに見返した。

 

了解なんて得られないことは分かっていた。


翌日彼女は、最低限の荷物と、貯めていたわずかな貯金通帳だけを掴んで、家を飛び出した。

 

両親には当面の生活ができるとの旨を書いた手紙をおいて。

 

琴は振り返ることはしなかった。

 

自分で見つけた狭い安アパート。

 

凍えるような冬の夜、安物の三面鏡に映る自分の顔は疲れでやつれていたけれど、昼はアルバイト、夜は安アパートの薄暗い電球の下で参考書をめくる日々のなか、琴の瞳には決心に満ちあふれた輝きがあった。

 

親の反対を押し切り逃げ道を断った彼女に迷いはなく、ついに翌春、総一より一年遅れて掴み取った「原町田大学」の合格通知の四角い封筒を、震える手で何度も抱きしめた。

 

入学して半年間、琴は勉強とアルバイトで忙しく過ごしていた。しかし、キャンパスは広く、総一の姿はどこにもない。

 

「総一くん、本当にこの大学にいるのかな…? 全然会えないな」

 

その頃、当の総一といえば、サッチンの噂通り、大学生活を謳歌していた。飲みや麻雀、合同コンパ。授業にはほとんど出ておらず、キャンパス内でも滅多に顔を見せない「どこにでもいる、自堕落な大学生の一人」の典型だった。

 

一方、琴は今まで住んでいたアパートに不便を感じていた。

 

「もう、今のアパートは大学も遠いし、できればもっと安いアパートを探さなきゃ…」

 

そして原町田の不動産屋を訪ねた琴に、店主が渋い顔で物件を勧めた。

 

「お客様、この物件はどうですか? 木造で築年数が古くて風呂もなく共同トイレですが、その分、格段にお値打ちな家賃ですよ」

 

そうして琴が見せてもらったアパートは、その名も「和光荘」

 

「わぁ…本当にボロいのね」

 

琴は思わず漏らしたが、親からの金銭的な援助を断った手前、文句は言えない。ここで我慢するしかない、と覚悟を決めて、和光荘への引っ越しを決めた。

 

琴にとっては敷金・礼金の支払いは大変だったが、大家さんへの挨拶も済ませ無事に引っ越しをした。

 

その日の晩。

 

琴は荷解きを終え、疲れて布団に入った真夜中。隣の部屋から、「カン!」「ツモ!」「ロン!」という、けたたましい麻雀の音が響いてきた。

 

琴は顔をしかめた。明日も朝から授業がある。しばらく我慢したが、真夜中になっても麻雀は終わらない。

 

「もう、うるさいな! 明日も大学があるのに!」

 

琴の堪忍袋の緒が切れた。壁を思い切り叩き、叫んだ。

 

「いったい今、何時だと思っているのよ!」

 

それでも音が聞こえてくる。

 

「うるさいって言っているでしょ!!」

 

ようやく隣が静かになったのを確認すると、琴は深いため息をついた。

 

翌日、大学ではゼミ対抗のソフトボール大会があった。運動万能の琴は応援のためにグラウンドに向かった。

 

そこで、グラウンドに立つ一人のだらしない学生の姿を琴は5年ぶりに見たのだった。

 

まだお互いに気づいていない二人の再会は、ここから始まる。


 



第5章:終電後の和光荘にて

 


まだ冷たい風が通りを抜ける真冬の夜だった。原町田大学の講義が終わり、腹の虫が満たされた後、沖田総一(20歳、原町田大学二年生)は、いつものように漠然とした退屈に襲われていた。

 

「今日は暇だな、俺の部屋で麻雀でもしないか」

 

彼の呼びかけに、三人の仲間がすぐに集まった。「よーし一丁やるか」と意気揚々とした声が、彼の住むアパートの部屋に響く。

 

総一の部屋があるのは、原町田の奥まった場所にある木造二階建ての「和光荘」。風呂なし共同トイレというオンボロアパートだが、その家賃は学生にとっては何物にも代えがたい格安物件だった。


親からの仕送りに頼る総一は、文句を言う権利もなく、ここに住み着くしか選択肢がなかった。

 

大学に入学して以来、彼は女性に口説き続けてきたが、フラれること実に7回、いや8回目。特に何かを成し遂げる目的もなく、ただ毎日を流すさえない男子学生だった。

 

「よし、今日はトコトン麻雀をやるぞ!」

 

各自が銘々に持ち寄った瓶ビールや安い焼酎を片手に、麻雀が始まった。積み上げられた牌がテーブルを叩く音、仲間たちの下品な笑い声が、夜の静寂を切り裂いていく。

 

深夜になっても、勝負は終わる気配がない。

 

「よーし!今日はついてるぞ!」

 

総一が役満のツモを決め、ドカンと卓を叩きながら大声を張り上げた、その瞬間だった。

 

ドンドン!

 

壁を突き破るような激しい音が隣室から響いた。

 

「いったい今、何時だと思っているのよ!」


 

鋭く、しかし芯の通った女性の怒鳴り声が聞こえた。


一同はピタリと動きを止め、凍り付く。

 

「まじかよ……隣からだぜよ。空き部屋のはずだったのに、誰か引っ越してきやがったな」

 

総一はそう呟きながら、苛立ちを隠さずに再び大声で牌を叩きつけた。

 

「ちくしょう!」

 

その瞬間、隣の部屋から先ほどの声が更に音量を上げて響き渡った。

 

「うるさいって言っているでしょ!!」


 

総一もさすがに驚き、顔を引きつらせた。「ひえ〜っ、凄えのが引っ越して来たもんだ……」

 

友人が恐る恐る口を開く。

 

「でも先輩、お隣さん、女の子みたいですねェ」

 

「沖田、やめようぜ……」

 

総一は悪態をつきながら、渋々諦め顔になった。「まあ、あの声からしてだな、どうせブスに決まっとるわい!」

 

「いや〜声だけじゃわかりませんよ」と友人が笑う。

 

一人が息を吐いた。「これで沖田さんの所もしばらく麻雀できなくなったな」

 

一同は残りのビールを飲み干し、銘々に立ち上がった。

 

「くそっ、午前三時。帰って寝るか……」

 

こうして、沖田総一の平凡で退屈だった学生生活は、隣室の怒鳴り声とともに、予想もしない方向へと動き出したのだった。

 



第6章:再会は快音とともに

 


翌日、大学のグラウンドは早朝から熱気に包まれていた。ゼミ対抗のソフトボール大会。


昨夜の麻雀で寝不足の総一は、眠い目をこすりながらもピッチャーとしてマウンドに立っていた。


運動神経だけは抜群の総一は、昨夜のことはすっかり頭から消えていた。

 

(相手は文学部古代史の豊田ゼミか。たいしたことねーな)

 

総一はそう口には出さずとも心の中で嘯きながら、次々と相手打者から三振を奪っていった。試合は7対0で最終回の二死。総一の快投で相手を完全に沈黙させていた。

 

(あと一人で、ワンヒットで完封だ。この調子で──)

 

そこで彼のバッターボックスに向かう最後の打者に視線が止まった

 

(あれま、さっきの女の子か……)

 

早朝のグラウンドの光の下で見ると、彼女は思ったよりも小柄で、どこか可愛らしい顔立ちをしていた。

 

(でもさっきは痛烈なのを打たれたからな……今度はそうはいかないぞ)

 

昨夜、隣室の騒音で麻雀を中断させられた怒りの声が、総一の脳裏をよぎる。

 

(それはそうと、あの顔……)

 

その時、バッターボックスに立つ女の子も、ふと総一を見つめていた。

 

(あの人、どっかで見たことあるわ……)

 

総一もまた、微かな既視感に囚われていた。

 

(あの女の子、どっかで見たことあるな……)

 

総一は思考を振り払うようにグラブを叩き、渾身の力を込めて投球した。ボールが手を離れた瞬間、相手ベンチから堰を切ったように声が飛ぶ。

 

「琴、頑張って!!」

「うてよおっ!」

 

その「琴」という呼びかけが、総一の頭の中で破裂した。

 

「あっ!」

 

総一は記憶の断片が一気に繋がるのを感じた。

 

味方ベンチからも勝利を確信する声が響く。「いけ、沖田っ!」

 

その瞬間、バッターボックスの女の子も同じように何かを思い出したように叫んだ。

 

「あっ!思い出したわ!」

 

彼女は強くバットを握り直し、振り切った。

 

カキーン!

 

ボールは乾いた快音を響かせ、総一の頭上を遥かに超える大きなアーチを描いた。打球はそのままレフトのネットを越えていく。

 

「まいったな、ホームランだよ……」

 

味方チームがため息混じりに嘆く中、総一はマウンドの上で一人、満面の笑みを浮かべた。

 

「ウヒャヒャ!思い出した、思い出した!そーか、琴か……!」

 

ベースを回りながら、琴も総一の顔をまっすぐ見ていた。彼女の表情は、怒りや驚きではなく、懐かしさに満ちていた。

 

「沖田くんだったの……!」

 

ベンチでは「やったぁ!沢村さんすごーい!」と大歓声が琴を出迎えていた。その輪をかき分けるように、総一が割り込んで進んでいった。

 

「ちょっと失礼!どいてね。琴!俺だ、総一だ!」

 

大声で叫ぶ総一に気が付いた琴は、その場で立ち止まった。

 

「久しぶり、総一!」

 

琴はそう言いながら、駆け寄る総一に向かって両手を差し出した。

 

総一もまた、かつての勢いのままに両手を広げ、小さな彼女を受け止めた。

 

「いよーっ!琴、5年ぶりだな。おめー元気か!」

 

総一は照れ隠しに大声で笑い、琴はその笑顔を眩しそうに見つめ返している。

 

五年前、あの公園のブランコで「俺も離れたくない」と言えなかった少年と、車窓から必死に名前を叫んだ少女。

 

遠回りをしながらも自らの足でこぎ続けたブランコが、今、眩しい太陽の下でようやく一つに重なり歩みを止めた。

 

「……ただいま、総一くん。本当に、ちっとも変わってないんだから」

潤んだ瞳を細めて琴が呟くと、総一の頬をひと筋の雫が伝った。彼はそれを拭おうともせず、ただ大きな声で言い放つ。

「バーロー埃が目に入っただけだい!」

その瞬間、春の柔らかな光の中で、二人だけの時間が静かに止まったようだった。



❤原作 第二話 『幼なじみはお年頃』へ続く