執筆期間 2026/06/1407/10 


ときめきラバーズ『わたしの沖田くん』

              『雨上がりの物語』

 

【わたしの沖田くん】  作者 野部利雄 集英社 二次創作 J.Magpie



古い路線バスが、黒い煙と重々しいディーゼル音を夏の硬いアスファルトに残して、ゆっくりと走り去っていく。

 

七月の下旬。大学の夏休みに入った琴と総一は、転校によって離ればなれになって以来、五年ぶりに二人で故郷・宇都宮の土を踏んでいた。

 

「それにしても、まさか琴の引っ越し先が俺の家の隣なんてな。」

総一がからかうように言うと、琴は少し顔を赤らめた。

 

その引っ越し作業を手伝うため、総一も町田でアルバイトをせず、琴に付き添う形で帰郷したのだった。

 

東京のせわしない雑踏と熱気を離れ、電車とバスを乗り継いでようやくたどり着いた地元の停留所。見上げる空は東京よりもずっと広く、風の中には、どこか懐かしい土の匂いが混ざっていた。

 

「やっぱり、町田とは空気が全然違うな」

 

総一が大きく胸を広げて宇都宮の空気を吸い込むと、隣の琴も懐かしさで目を細めた。

 

「ええ……そうね。私は中学のときに引っ越して以来だから、本当に何年ぶりかしら。でも、新しい建物がずいぶん増えて、ちょっと雰囲気が変わったみたい」

 

変わりゆく故郷の街並みを、琴は少し寂しそうに、けれど興味深そうに見まわしていた。

 

「ん……」ふと、総一が湿り気を帯び始めた風に気づき、空を見上げて言った。

 

「なぁ琴、なんか空が怪しくなって来たから早く行こうか」

 

総一は肩にかけたボストンバッグのベルトを持ち直し、馴染みのある脇道へ向かって歩き出した。

 

二人が進む足先は、共に通った中学校からの帰り道へと自然に重なっていた。


大通りから一歩入れば、そこにはあの日並んで歩いた、細く曲がりくねった道が、当時の面影をそのままで静かに横たわっていた。

 

「ねぇ総一、やっぱり少し中に入ると昔のままね」


「ああっ、道は砂利道から舗装に変わったけどな」

 

アスファルトを踏みしめる一歩ごとに、二人の胸には中学時代の記憶が鮮やかによみがえり、まるで当時に戻ったかのような錯覚が押し寄せてくる。

 

そんな心地よい感傷に浸っていた時、不意に総一の足が止まった。

 

「あれ?あんな所にお店があったっけ」

 

真新しい店舗の看板に、総一の視線が吸い寄せられる。

 

「『リカーショップ寿(ことぶき)』……へえ、酒屋さんか」

 

呟きながらも、彼の目は店の前で熱心に掃除をしている美人の姿に釘付けになっていた。総一の足が完全に止まり、だらしなく口元が緩むのを、琴は見逃さなかった。

 

「ねぇ総一」

 

隣で琴が低めの声で話しかけたが、総一の耳には届いていなかった。

 

「もう、総一!なに見てるのよ。天気が悪いんでしょ、サッサと行くわよ!」

 

琴の眉がぴくりと吊り上がった。

彼女は総一の耳を強引につかむと、容赦ない力で引きずるようにして歩き出した。

 

「いたたたっ!何すんだ琴!俺が一体何したって言うんだよ!」

 

「まったく、もう……!相変わらずイヤらしいんだから!」

 

ぷりぷりと怒りを漂わせて歩く琴の背中を、総一はボストンバッグを揺らしながら慌てて追いかける。

 

「待ってくれよ琴っ」

「フン、知らない!」

 

その時、二人の脇を、学生カバンを下げた男女の中学生がすれ違った。何か楽しそうな話題でもあるのか、瑞々しい笑顔で言葉を交わし合っている。

 

そのあどけない後ろ姿を見送るうちに、琴の表情がふっと和らいだ。何か大切なものが思い出されたように、彼女の唇から自然と微笑みがこぼれる。

 

「ふふ、なんだか懐かしいわね。私たちもあんな風に、毎日この道を歩いていたのよね」

 

「あぁ。あの頃は毎日がやたらと長かったけど、楽しかったなぁ……」

 

総一もかつての放課後を思い浮かべながら、何気なく言葉を続けた。

 

「俺、琴が引っ越しちまってから、この道も急に遠く感じられてさ。毎日、一人でトボトボ歩いてたぜよ」

 

「……え?」

 

その何気ない言葉に、琴の歩幅が少しずつ小さくなり、やがて足音が途絶えた。

総一はそれに気づかず数歩先まで歩いていたが、返ってこない足音に慌てて振り返る。

 

「ん……琴?」

 

そこには、うつむいたまま、きゅっと唇を結んだ琴が立ち尽くしていた。

さっきまでの穏やかな笑顔が嘘のように、彼女は完全に口を閉ざし、静かに下を向いたまま自分のつま先を見つめている。

 

「おい、どうしたんだよ?琴……俺、何か悪いこと言ったか?」

 

総一は、慌てて琴の元へと引き返した。

 

「……」

 

「どうしたんだよいったい」

 

心配そうに、総一が下から琴の顔をのぞき込もうとした、その時。

 

琴が勢いよく顔を上げた。総一とまっすぐに向き合った彼女の瞳からは、大粒の涙がとめどなく溢れ、頬を濡らしていた。

 

総一が言葉を失った、まさにその瞬間だった。

にわかに暗転した空から、激しい雨が容赦なく降り注ぎ、乾いたアスファルトを白い水柱で叩きはじめた。

 

「うわっ、急に降ってきやがった!琴、あそこの神社で雨宿りするぜよ!」

 

返事を待つ余裕はなかった。総一は琴の細い手首をぐっと握りしめると、かつての通学路の脇にひっそりと佇む、古びた神社の境内へと飛び込んだ。

 

境内の真ん中には、天を突くような一本の大木が、青々と力強く葉を茂らせ天然の緑の屋根を作っている。そこは、子供時代に二人でよく遊び、時には同じように雨宿りをした思い出の場所だった。

 

二人は巨大な幹のそばに、身を寄せるようにして並んだ。時折冷たい水しぶきが飛んでくる。

 

しかし、周囲を激しく叩きつける雨音とは対照的に、二人の周りだけは静寂に包まれていた。

 

沈黙に耐えかねた総一が濡れた服をパッパと払っていると、隣から、雨音に消されそうなほど小さな琴の声が聞こえた。

 

「……ごめんなさい、総一」

 

少しの間、激しい雨の音だけが二人の間に流れた。琴は胸元で総一につかまれた手首を握りしめ、静かに言葉を紡ぎ出す。

 

「私……引っ越しのとき、自分のことばかりで……。総一をこの道に、一人きりで残していっちゃったんだなって。今の今まで、気づかなかった……」

 

琴の瞳には、今にもこぼれ落ちそうな涙がたまっていた。

 

総一は目を瞬かせ、うかつな一言が、彼女の心をどれほど傷つけ悲しませたか。

その瞬間、総一は、琴の瞳を見据えた。

 

「なに、何言ってんだよ琴!謝らなきゃいけないのは俺の方だ!琴はみんなと別れて、知らない土地で一人ぼっちで一番辛かったはずなのに……。俺、そんな琴の気持ちも分からずに、あんな事を言って……本当に済まなかったぜよ!」

 

そう言いながら、総一は思いっ切り頭を下げた。

 

その様子を見た琴は、そっと総一の頭をさする。それから——堪えきれなくなったように、フフッと優しく微笑んだ。

 

「ううん。お互い様ね」

頭を上げた総一と琴には、いつもとは違う笑顔が満ち溢れていた。

 

どちらからともなく、二人の間には、この神社で泥だらけになって遊んだ他愛のない思い出話が咲き始めた。

 

「……でも総一。本当に私がいない間、ずっと一人で歩いてたの?途中でかわいい子の後ろばかりついて歩いてたんじゃないでしょうね」

 

「なっ、なに言ってんだ琴!そんなわけないぜよ!」

 

「ホントに?でもさっきの酒屋さんに行く時は、私もついていくわよ」

 

「ええっ何でだよ琴!」

 

図星を突かれ慌てふためく総一を見て、琴は少女のような笑顔を浮かべた。

 

気が付くと、あれほど激しかった雨の音がいつの間にか遠ざかり、雲の切れ間から鮮烈な午後の陽光が差し込んできていた。

梢から滴る雨の滴が、光を浴びて宝石のようにきらきらと輝きながら境内に落ちていく。

 

「あら、雨、止んだみたいね」

 

琴が濡れた葉の隙間から覗く青空を見上げ、ホッとした表情を浮かべた。

 

そして、総一は濡れて垂れ下がっている小枝が、琴にぶつからないようそっと持ち上げた。

 

カサリ。

 

小さな音とともに頭上の枝から、茶色い塊が不意に落ち、琴の濡れた髪にまとわりついた。

 

「キャッ!な、なに!?」

琴は、その髪についた塊を手で払いのけた。


それは、本格的な夏の訪れを告げる、セミの抜け殻だった。

 

「ぎゃあああっ!虫っ!虫よ総一……っ!!」

 

大の虫嫌いである琴は、総一に思い切りしがみついた。

 

「うおっ!?ちょ、琴!?」

 

総一の胸にすっぽりと顔をうずめ、ぎゅっとシャツを掴んで離さない。

腕の中に収まる琴の確かなぬくもりと、雨に少し濡れた甘い髪の匂いが、総一の耳の奥でどっと大きな音を立てた。


「おい……、琴?これ、ただのセミの抜け殻ぜよ……?」

 

総一が耳元でそっと告げると、琴は涙目のまま恐る恐る顔を上げ、弾かれたように総一から離れた。

 

みるみるうちに、琴の顔が耳の裏まで真っ赤に染まっていく。

総一もまた、顔を背け首筋に手をあてていた。

 

「ん、もう……意地悪ねっ……わざと私の肩に落としたでしょう!」

「何言ってんだ、知らんぜよ……」

 

お互いに顔を真っ赤にしながら、どちらからともなく、呆れたように小さく吹き出した。

 

神社の境内を一歩出ると、雨上がりの独特の瑞々しい匂いが、街いっぱいに広がっていた。

 

「きれいに雨もやんだな、さぁ、帰ろうかお隣さん!」

「ええ、行きましょう総一!」

 

太陽の強い光に照らされたアスファルトが、まばゆい黄金色の光を撥ね返している。

濡れた二つの影が、光の向こうへ並んで伸びていく。

二人が歩調を合わせるたびに、その輪郭は、何度もかすかに重なり合っていた。